どうかこれ以上の犠牲がとどめられ、愚かな行為から立ち返ることができるように。犠牲となった人々の上に、主の慰めがありますように。憎悪の連鎖を断ち切ることができるように。
前 奏19人々があなたがたに「霊媒や、ささやき、うめく口寄せに尋ねよ」と言っても、民は自分の神に尋ねるべきではないのか。生きている者のために、死人に尋ねなければならないのか。20ただ、みおしえと証しに尋ねなければならない。もし、このことばにしたがって語らないなら、その人に夜明けはない。21その人は迫害され、飢えて国を歩き回り、飢えて怒りに身を委ねる。顔を上に向け、自分の王と神を呪う。22彼が地を見ると、見よ、苦難と暗闇、苦悩の闇、暗黒、追放された者。
1しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。2闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。2017 新日本聖書刊行会
1.輝く日を仰ぐとき 月星 眺むる時 雷(いかずち)鳴り渡る時 まことの御神を思う
わが魂(たま) いざたたえよ 大いなる御神を わが魂 いざたたえよ 大いなる御神を
2.森にて鳥の音(ね)を聞き そびゆる山に登り 谷間の流れの声に まことの御神を思う
わが魂(たま) いざたたえよ 大いなる御神を わが魂 いざたたえよ 大いなる御神を
3.御神は世人(よびと)を愛し ひとりの御子を降(くだ)し 世人の救いのために 十字架にかからせたり
わが魂(たま) いざたたえよ 大いなる御神を わが魂 いざたたえよ 大いなる御神を
4.天地(あめつち)造りし神は 人をも造り変えて 正しくきよき魂(たましい) 持つ身とならしめ給う
わが魂(たま) いざたたえよ 大いなる御神を わが魂 いざたたえよ 大いなる御神を
5.まもなく主イエスは来たり われらを迎え給わん いかなる喜びの日ぞ いかなる栄えの日ぞ
わが魂(たま) いざたたえよ 大いなる御神を わが魂 いざたたえよ 大いなる御神を アーメン代表祈祷 (司会者)我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)12ヨハネが捕らえられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。13そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。14これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、15「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。16暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」17この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」2017 新日本聖書刊行会
1.
12節をお読みします。「ヨハネが捕らえられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた」。荒野でサタンの誘惑を受けたイエスは、その後にエルサレム地方でみことばを語っておられました。しかしそこで、バプテスマのヨハネがヘロデ王に捕らえられたということを聞いたのです。そのときイエス様は何を思ったでしょうか。ヨハネが捕らえられたとすれば、次はわたしだ。敵がひしめいているエルサレムにとどまっていたら危ない。急いで実家のあるガリラヤへ帰ろう。いいえ、そんなことをイエス様が恐れたはずがありません。神の子が死ぬところは十字架の上しかなく、そして十字架の時はまだ来ていない。イエス様はすでにそのような確信を持っていたからです。イエス様がヨハネが捕らえられたことを聞いて、ガリラヤへ立ちのかれたのは、ヨハネが始めた宣教の働きを引き継ぐためでした。イエス様はカペナウムでこう叫ばれました。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」。
このイエス様の宣言は、もともとヨハネが語っていた言葉とまったく同じものです。ここに私たちは、イエス・キリストにあって、私たち人間の働きというものは必ず引き継がれていくということを見るのです。イエス様は私たちの働きの先駆者でもあります。みことばを宣べ伝えたい、人々に神の愛を体験していただきたい。罪許されて救いをその心の中に受け取っていただきたい。あらゆる宣教の働きは、イエス様から始まっており、私たち信じる者たちに引き継がれたものです。しかし同時に、私たちがこの人生の中で、神のために働いたわざもまた、天で報われるだけではなく、この地上においてイエスはそのバトンを受け取ってくださって次の世代へと必ず引き継いでくださいます。
今から約150年前、明治維新が起こると、文明開化の波とともに、欧米から次々と宣教師が来日し、日本にキリスト教の大きなうねりが訪れました。この新潟に最初にやってきた宣教師が、パーム夫妻という一組の宣教師でした。明治維新から7年後、1875年に現在の中央区にある日本基督教団の東中通教会、これがパーム夫妻によって生み出された、新潟県初のプロテスタント教会と言われています。東中通教会を生み出した後、パーム宣教師は新発田、長岡、水原、(当時、水原は新潟でも最も人口が多い場所でした)などの都市部だけではなく、佐渡、亀田、そして葛塚と、新潟県内の13の地域を巡回して伝道に励みました。ちなみに東中通教会の次に生まれたのが村上教会、その次が中条教会です。新潟教会や長岡教会はその数年後でした。いかに当時の阿賀北地方が伝道有望地として見られていたかがわかると思います。
私たち豊栄キリスト教会は、パームバンドと呼ばれるその流れとは別のものですが、それでも150年も前に葛塚にも宣教の手は広げられていたのです。教会の新会堂用地を得た常盤町はちょうどその150年前頃に開かれた町です。今の言葉で言えばニュータウンにあたるあそこにも、パーム宣教師による福音は宣べ伝えられていたのでしょう。それから150年経って、豊栄キリスト教会がそこに土地を得たというのも不思議な思いがするのです。パーム宣教師の働きは、直接教会を生み出すことはなく、70年を待たなければなりませんでした。1945年、終戦と同時に、アメリカから宣教師チームが来日し、いまの新潟福音教会が形成され、そこのクリスチャンたちがジープやトラックに乗せられてこの葛塚で福音を伝え、そこから家庭集会が生まれ、そしてやはり当時のニュータウンであったこの嘉山にまず幼稚園、そして教会になったのです。
私たちの教会はパーム宣教師の働きとは直接関わってはいないとはしても、そのその祈りと働きが引き継がれていると言えるのではないでしょうか。どんなに人が熱心に働いたとしても、その働きが自分の死と共に引き継がれずに終わってしまうならば、どんな結果もむなしいものです。しかしヨハネの働きを評価し、それを引き継ぎ、同じ言葉をもってカペナウムで叫ばれたイエス・キリストを、聖書がそこから宣教が始まった、と記していること、それは今の私たちの労苦も、決してこの時代で終わってしまうのではなく、必ず引き継がれていくということです。人が引き継ぐのではなく、神が引き継ぎ、そしてそのために主は人を用いてくださるのです。
2.
さて、聖書にはこの出来事が旧約聖書のイザヤ預言が成就するためであった、と記しています。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」
「異邦人のガリラヤ」、「暗やみ、死の地と死の陰にすわっていた人々」。おそらく、暗いものを想像するでしょう。しかし実際は、ガリラヤ地方はイスラエルの中でも最も豊かで、人口が集中していた地域であったのです。イスラエルは南にいくと石ころばかりの荒野ですが、北にあるこのガリラヤ地方はたいへん土壌が豊かな土地であり、作物が育てやすい場所でした。農業が潤うと、それを扱う商業も発展し、人が集まります。有数の農業地帯ガリラヤの、さらにその中心であるカペナウムは、イスラエル随一の商業都市でした。
またこのガリラヤ地方は、ツロ・フェニキア・シリア・ペリシテといった、イスラエルと敵対関係にある国々と接しており、歴史上、異邦人に奪われたり、取り返したりが繰り返された場所でもありました。異邦人に支配されて混血が進んだことで、イスラエル人からは異邦人として差別される苦しみを経験する一方で、外国の文化に触れ続けることで新しいものを積極的に取り入れていく空気が生まれていました。イエス様が、ご自分の出身地であるナザレを出て、カペナウムに拠点を定めたのは、この町に多くの人々が集まり、また保守的な考えに囚われない柔軟さを持っていたからでもありました。
しかし、そのような町の発展と、伝統に縛られない空気にもかかわらず、イザヤのみことばは語っています。彼らは暗やみの中にすわっていた、死の地と死の陰にすわっていた、と。どんなに生活が潤い、新しい文化や考え方にも積極的であったとしても、ガリラヤ人の心は、まことの神から離れていました。イザヤの時代から連綿と続く、外国から入ってきた偶像の神を拝みながら、それでも自分たちは真の神を信じているユダヤ人の一人だと主張していました。物が溢れていても、それを手に入れることのできる経済力も持っていても、決して心は満足せず、幸せを受け取ることができない、それがガリラヤ人を囲んでいた暗やみであり、その先には死が待ち受けていたのです。
イエス様がこのカペナウムを選ばれたのは、人口が集中しているからでもありましたが、それは同時に、神を忘れ、神から離れている人々がひしめいていたからでもありました。そのすべての人に、みことばを伝えなければならない。ヨハネが語った、罪を悔い改めよ、天の御国が近づいたから。イエス様はそのメッセージをもって、ご自分の宣教の始まりとされました。
私たちも、この豊栄に生きる人々に対して語るべき言葉の本質は、ここにあります。悔い改めなさい、天の御国が近づいたから。それは、時代が変わっても、変えてはいけないメッセージではないでしょうか。もちろん悔い改めよと言われて素直にうなずく人はいないでしょう。しかしまず悔い改め、つまり、人生の方向転換を決断し、なくなるものからなくならないものへ、滅ぶべき偶像からまことの神イエス・キリストへ、それは決して変わることのない、たましいを救うための唯一の処方箋です。イエス様を一人でも多くの人々に宣べ伝えること、それは人生を賭けるにふさわしい、神が必ず後代へと引き継いでくださる、すばらしい働きです。すぐに報いが目に見える形で現れることはありません。しかし私たちが地上を去った後、必ず実を結び、むなしく地面で朽ち果てることのない働きです。それは、私たちひとり一人に神さまがゆだねてくださったものなのです。主から引き継ぎ、また主が引き継いでくださって世界に命を取り戻していく、福音宣教を私たちにとってのライフワークとしていきましょう。報 告1.いとも尊き 主はくだりて 血の値(あたい)もて 民を救い きよき住居(すまい)を 造り立てて その礎と なり給えり
2.四方(よも)の国より 選ばるれど 望みも一つ 業(わざ)も一つ 一つの御糧(みかて) 共に受けて ひとりの神を 拝み頼む
3.数多(さわ)の争い み民を裂き 世人(よびと)そしりて 悩むれども 神は絶えざる 祈りを聞き 涙に代えて 歌を賜わん
4.世に残る民 去りし民と 共に交わり 神を仰ぎ 永遠(とわ)の安きを 待ち望みて 君の来ますを 切に祈る アーメン父 御子 御霊の おお御神に ときわに絶えせず み栄えあれ み栄えあれ アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。仰ぎ願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン