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ふうけもん準備日記(3)「かたちからはいる人」

 金プロデューサーから、世話人を依頼されたのが先日の日曜日。
それから月から金と忙しく動き回っていた割には、本業の仕事もあり、なかなか進まない。
それでもマスコミのリストアップや説明文書なども少しずつまとめてはいる。
今後、マスコミや教会に説明にあがったり、郵送したりすることも多くなると思い、ホームセンターで角2の茶封筒を300部購入してきた。
封筒に入れるロゴも作ってみた。といっても、ふうけもんのロゴをパクったオマージュしたものである。
logo.jpg
Illustratorのようなソフトは持っていないので、素人作業である。それでもうまくいったほうだと自画自賛。
とはいえ眺めていると、なにか努力の方向性を間違えているような気がしないでもない。
でも「かたちからはいることも大事よ」、と昔勤めていたところの女性上司の言葉を思い出した。
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posted by 近 at 17:15 | Comment(0) | ふうけもん新潟試写会

ふうけもん準備日記(2)「金なし、コネなし、時間なし」

 私が世話人として考えなければならない仕事は、主に三つある。
(1)新潟のマスコミ各社に試写会の情報を流してもらうこと。
(2)すでにチケットが送られている諸教会に再アピールを行い、チケットを完全消化していただくこと。
(3)当日、奉仕してくださる方を諸教会から募ること。
プロダクション側としては、会場の確保はしてあるものの、広報に関してはほとんど手つかずのよう。
全国世話人を務めてくださっているS先生の教会に問い合わせてみたところ、新潟向けのチラシの残部は33部(!)。
しかし増刷する予算もない。マスコミに対して、「広告」として依頼する資金もない。
虫のいい話だが、この「ふうけもん」を記事として取り上げていただくしかない。

この週は、本来であれば足を使って回らなければならない時期だが、まだそれ以前のところを彷徨っている。
マスコミへの文書、諸教会への文書、スケジュールの作成・・・・気持ちは当然焦る。だが焦っても仕方がない。
増刷する費用すらないといっても、せめて文書の発送費用は必要になる。
そのために、時間は限られているが、諸教会に献金を要請することもあるだろう。
取り急ぎ、会則を作り、ゆうちょ銀行に行って口座を開設した。
本当は振替口座が作りたかったが、一週間ほどかかるという。通常口座ならすぐにできるということで、そちらにした。
posted by 近 at 21:24 | Comment(0) | ふうけもん新潟試写会

ふうけもん準備日記(1)「ミニストリーは突然に」

 クリスチャンの方は、映画『ふうけもん』をご存じだと思う。
元祖「便利屋」の右近勝吉氏の自伝をもとに、クリスチャン金珍姫氏がプロデュースした映画である。
監督に『釣りバカ日誌』の栗山富夫氏、また配役に中村雅俊、竹中直人、哀川翔ら、錚々たる顔ぶれを配置しながらも、
資金面の問題から泣く泣くお蔵入りした、いわくつきの映画である。それが数年前のこと。
しかし映画の裏方として奔走した梅津正彦氏(「しずちゃん」のトレーナー)が惜しまれながら亡くなられたことをきっかけに、
「このままでは終わらせない」という機運が高まった。
右近氏の出身地である佐賀、また同じく梅津氏の故郷の山形・酒田、そして大阪で試写会が行われた。
いずれにおいても、開始前から行列ができるほどの超満員であったという。
そしてこの9月から来年1月まで、「栗山富夫監督行く!日本縦断上映の旅」と銘打って、43都道府県での試写会を決行する。
てっきり「大倉修吾と行く!ハワイ一泊二日の旅」みたいに、監督と全国ツアーができるのかと思ってたが、
どうやら監督だけが全国を巡って舞台挨拶を含めた上映会を行うらしい。
それだったら「栗山監督行く!」だろうと思ったが、もしかしたら梅津氏の遺志と共に、という意味かもしれない。

 7月頃、私たちの教会にも、新潟での試写会の案内と、チケット50枚以上が送られてきた。
もともと「ふうけもん」を応援していたこともあり抵抗感はなかったが、どうやら全国すべての教会にチラシとチケットが送られたよう。
余ったら返還すればいいので、支払いを強制するものではないが、受け取った教会によっては驚くか、反発するかも、と思ってた。
当日の奉仕者も募集します、とあったので、近くなったら何か申し出ようか、とか教会員と話していた。
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posted by 近 at 18:01 | Comment(0) | ふうけもん新潟試写会

2014.8.24「私が牧師になった理由(わけ)」

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聖書箇所 ガラテヤ人への手紙2:20
 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

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posted by 近 at 20:56 | Comment(0) | 2014年のメッセージ

緊張の説教論(11)「3-3.説教はだれに語るのか〜説教者と会衆によって神にささげられる」

 一般に、説教論は説教者(語り手)と会衆(聞き手)の関係性の中で論じられる傾向にある。説教者は「聖霊の通りよき管として」用いられることを祈りつつ神の言葉を語り、会衆はそれに傾聴し、応答の賛美をし、献金をし、祈りをささげる。福音派の教会においてもそのようなスタイルで説教とそれに続く礼拝式次第は進められていく。しかし関川泰寛氏がルターの礼拝改革の目的を指して言っているように、「礼拝は、わたしたち人間のわざというより、神に招かれた者たちが、神に用いられて捧げる『神への奉仕』である(35)」。
 説教もまた、礼拝の中心である以上、それは神の行為であると同時に、神が私たちに許し給うた奉仕であるということができる。言い換えるならば、説教は神から人間に対する「上からの言葉」であると同時に、神に向けてささげられる「下からの奉仕」でもある。その意味において、今日の福音主義を標榜する教会においてさえ、説教の礼拝論的位置づけが曖昧であると言わざるを得ない。すなわち説教を神から私たちに与えられた言葉として一元的のみに捉えることによって、説教が神に捧げられるものであるという感覚が欠落してしまったのである。その結果は何であったか。会衆に対して、自分の主観や主義主張を神のことばとして押しつける説教者と、消極的な聞き手の立場に徹する会衆の姿である。
 しかしそれは歴史的に正しい姿ではない。フォーサイスはこのように語る。
 説教は、その何たるかを知るプロテスタンティズムでは、つねに礼拝に必須な部分とみなされてきた。それは、神より出でて神を告白し、神へと還る福音のみ言である。説教は実際には人間に語りかけられるが、本当は神に献げられる。これが説教の真の特質である。・・・(中略)・・・使徒たちは説教しないではいられなかった。説教は、使徒たちが、自分を捉えた恵みのみ言に対して感謝と賛美をもってする応答の本質的部分であった。(36)
説教は神に捧げられるものであると同時に、説教者にとっても応答の行為であった。説教を聴いた会衆だけが応答するのではない。説教者もまた語りながら応答しているのである。続きを読む
posted by 近 at 10:26 | Comment(0) | 説教論

2014.8.17「私がクリスチャンになった理由(わけ)」

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聖書箇所 ヨハネの福音書9:1-7
 1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。

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posted by 近 at 18:00 | Comment(0) | 2014年のメッセージ

緊張の説教論(10)「3-2.説教は誰が語るのか〜聖書の緊張は説教者と会衆を巻き込む」

 前章において、説教史における「緊張の説教」が決して特殊な例でないことを確認した。緊張の説教は預言者や使徒たちの説教に発し宗教改革において再顧され、現代へと続く。その歴史が意味するところはこうである。数千年間、神の民が醸成してきた神学的理解に立ち、神の御前においてそれを真剣に宣明する説教を行うとき、説教者も聴衆もその根底にある聖書の主張そのものが生起する緊張から目をそむけることができない。緊張を生み出すのは生ける神の生けるみことばであるが、その緊張は説教者と聴衆に自発的緊張状態をもたらす。加藤氏は、海老名弾正・小崎弘道と並ぶ、熊本バンドの中心人物であった宮川経輝が説教を常に真剣勝負と公言していたことに言及しつつ、以下のように述べている。
 真剣勝負という表現に含まれているのは、緊張であり、集中である。緊張とは言うまでもなく、硬くなることではなく、関係が張り詰めることである。しかもそれは<ゆるみ>と<張り>の共在が造る力動的な関係である。この場合には、まず説教者と聞き手との間の緊張関係であり、さらに根元的には聖書の言葉との緊張関係であり、神の前にある緊張感である。神が語られるのを聴くところに生まれる緊張である。(29)
筆者がかつて説教演習の際に「間がない」と批判され、「落語じゃあるまいし」と心の中でつぶやいた経験を先に述べた。しかし「<ゆるみ>と<張り>」とはまさに落語の名人芸に通じるもののようにも思われる。名人が数分の演題に気の遠くなるような修練を重ねるように、説教者もまた神の言葉を語る際に修練を欠かしてはならないということだろうか。だが加藤氏は別のところでこうも述べている。「ただしこれは、説教者の単なる雄弁家としての技巧が生み出せるようなものではないであろう。神のみまえにおける畏敬と信頼のこころ、自分を生かす恵みに対する信頼から生まれる自由のこころが生み出すものである。神の子たちの祭典である礼拝にふさわしい緊張なのである(30)」。続きを読む
posted by 近 at 16:23 | Comment(2) | 説教論

2014.8.10「あなたを認めてくださる方」

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聖書箇所 ヘブル人への手紙4:12-16
 12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
 14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

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posted by 近 at 08:48 | Comment(0) | 2014年のメッセージ

緊張の説教論(9)「3-1.説教は何を語るのか〜緊張の説教は「緊張の神学」から生まれる」

第三章 緊張の説教論とは何か

 ドイツ教会闘争下、ヒトラーに抗した告白教会の代表的説教者であるハンス・ヨアヒム・イーヴァントは、説教者の責任について次のように述べている。
 啓示の職務、神の言葉の職務によって我々に委ねられた責任は、まことに恐るべきものである。務めを果たすたびに、この宣教のわざをなすたびに、自分が今伝えているこの神の言葉は、いのちを与える言葉として伝えられているのか、それとも、人を殺す言葉としてであるかとの問いのもとに、常に立たせられるからである。死せる教会とは、殺された教会に他ならない。教会を殺す者は、説教壇に立っている。しかもそれを知らないのだ。(23)
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posted by 近 at 11:12 | Comment(0) | 説教論

2014.8.3「もし明日世界が終わっても」

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聖書箇所 マタイの福音書6:34
 「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(新改訳)
 「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(新共同訳)

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posted by 近 at 18:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2014年のメッセージ