950-3321 新潟市北区葛塚3228-3 豊栄キリスト教会ときわ会堂
(Googleマップでは、近隣にある「スマイルカイロプラクティックとよさか」「ガーデンローズ(アパート)」「開市公園」などを参考にしてください)
電話番号 025-387-4934(旧かやま会堂の牧師館につながります。留守の場合、牧師の携帯に転送されます)

聖書箇所 『ヨハネの福音書』8章1-11節
1イエスはオリーブ山に行かれた。2そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。3すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。5モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」6彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。7しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」8そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。9彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。10イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」11彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」2017 新日本聖書刊行会
ある中小企業に勤めていた男性が、職場のお金を横領したと同僚から訴えられ、警察に突き出されました。自分はやっていないと彼は主張したのですが、もともとその会社に入る前、彼はたいへん荒れた生活をして何度も警察沙汰を起こし、その会社の社長に拾ってもらってようやく立ち直ったように見えたという人でした。ですから社長以外の周りの人間も、警察も、この人がお金を盗んだと信じ込んでしまっていました。しかも取り調べにあたった刑事が、その男性の過去を知っている人で、十年以上も音信不通だった母親に連絡して警察に呼び出し、彼のあんたの教育が悪いから息子が今も罪を犯し続けるんだと説教したそうです。その刑事は、そのことを彼にも話し、親に申し訳ないと思うなら罪を認めろと迫りました。しかし彼の心に生まれたのは、自分ばかりか家族も巻き添えにして、何も感じない刑事への激しい憎しみでした。
罪という漢字は、四つに非と書きます。しかし漢字に詳しい方に聞くと、これは四でも非でもなく、四に見えるのは魚を捕る網、非は人間が真ん中から分裂している様子を表すそうです。つまり、見えない網に捕らえられ、人の心が真っ二つに割れている、それが罪。罪を犯す者は、罪とわからずに罪を犯します。この刑事も、罪を扱う職業でありながら、自分の罪がわかっていないように思います。しかし私にも彼らを責める資格はない。資格という意味では、誰も持っていない。罪を犯しながら、罪に気づかない。それがすべての人間の姿だと、聖書は私たちに語ります。姦淫の現場を捕らえられた女性、その姦淫の罪を鼻高々に訴える律法学者たち、あるいは無関係であるはずの群衆でさえ、すべての人々が罪とは無縁ではいられない姿がここには描かれています。それに対してイエス様は、ひたすら地面に何か文字を書いている、という不思議な聖書の物語です。
さて、それまで群衆にみことばを教えていたイエス様が、罪を犯した女性とそれを訴えるパリサイ人の前で、地面に文字を書き始めました。イエス様は地面に何の文字を書いていたのでしょうか。そこにいたすべての者が、首を伸ばしてイエス様の書かれた文字を見つめていたはずです。想像を働かせることもできますが、残念ながら、実際の所はわかりません。しかし間違いなく、それは旧約聖書の一部であったでしょう。そのみことばが何であれ、みことばと、この女性の罪を利用して、イエスを訴えようとする者たちへの怒りがそこにはにじんでいました。パリサイ人たちは、この女性を姦淫の罪で引きずってきました。しかし罪を犯したくなくても犯し続ける人への痛みはありません。彼らにとって、この女はイエスを訴えるためだけの道具にすぎません。彼女の心の中には何の興味も無い。そこにイエスは憤られたのです。人の罪を悲しむどころか、人の罪を利用してイエスを告発しようとする、彼らの心に対してです。
イエス・キリストが二千年前にこの世に来られたのは罪をさばくためではなく、罪人をあわれむためでした。否、あわれんで終わりではなく、自分を犠牲にして信じる者を罪から解放するために来られたのです。この姦淫の女は、この中で自分が罪人であると認めていた唯一の人でした。いけないと思いつつ、欲望に流されて姦淫を繰り返していたのでしょう。しかしパリサイ人たちは、罪を犯してしまう、人の心の弱さにつけ込むという、自らの罪に気づかなかった。人は神のことばを用いて、自分の正しさを誇り、人の罪をあげつらうようなことをしてしまうこともあるのです。だからこそイエス様は、地面に文字を書きました。どんなみことばを書かれていたのかはわかりません。しかしどんなみことばであれ、それが聖霊と共に働かれるとき、どのような罪人の心もえぐり出します。
そしてイエス様はおもむろに立ち上がり、有名な言葉を言われました。7節、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」。この言葉は、そこにいたすべての者に己の罪を突きつけました。この姦淫の罪で捕らえられた女性はもちろん、その罪をあわれむことなく、むしろ利用するために彼女を連れて来たパリサイ人たちに対しても。そしてそれまでイエスのことばを喜んで聞いてはいたが、自分が罪人であり救いを必要としていることには目を向けてこなかった群衆に対しても。
イエス様の言葉は、すべての人の心を例外なく突き刺す神のことばです。そこにいたすべての者たちは、一人、また一人と去っていきました。イエスと姦淫の女性だけがそこに残ると、主は彼女に優しく言われました。11節、「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」。
しかし行きなさいと言われても、この女性に行くべき場所があるのでしょうか。姦淫の罪は、人間の性的欲望から生まれる罪です。こんなことはしたくないと思いながら、どうしてもその鎖から逃げられないのが罪の姿ですが、とくに姦淫の罪というのはそうです。彼女は行くあてもないままに、とぼとぼと歩き始めます。もし帰るべき家があっても、同じ罪を繰り返さないという保証はありません。むしろ、今まで何度も、もう罪から離れたいと思いながら、誘惑に負けて罪を犯し続ける、その繰り返しだったのではないでしょうか。「行きなさい。これからは決して罪を犯してはなりません」。しかし彼女は心の中でこう答えます。「無理です。私は罪を犯さずに生きていくことなどできやしないのです」。しかしそれでもなお、神は私たちにこう語りかけておられます。「これからは、決して罪を犯してはなりません」。
人間が、どんなに罪を繰り返すまいと誓っても、それは無力な誓いです。しかしだからこそ、私たちはイエス様の言葉によりたのみます。「これからは決して罪を犯してはなりません」。それは命令ではなく、約束です。私たちが自分の力ではなく、神のことばの力に頼るのであれば、「これからは決して罪を犯してはなりません」という言葉は現実になる、という、力強い約束です。神のことばが私たちを変える、いな、神のことばしか私たちを変えるすべはないということを信じましょう。この女性も、私たちひとり一人も、みな同じです。キリストを信じたとき、私たちの古い肉の性質は焼き尽くされ、新しい「今」を、これからを、まったく新しく生きる者として造り変えられていきます。決して私たちの生活は、クリスチャンになっても同じことの繰り返し、ではありません。キリストに出会った迫害者サウロは、使徒パウロに生まれ変わりました。彼はその手紙の中でこう書いています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。古い肉の性質は過ぎ去ります。しかし古い傷や経験は過ぎ去るのではなく、今日を生きるための、新しい命への糧となるのです。それを奇跡と呼ぶことなくして、何が奇跡でしょうか。そして私たちはその奇跡を日々経験しているのです。
最後に、ここから続く12節のイエス様の約束のみことばを紹介して、説教を終わります。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」。
聖書箇所 『創世記』11章1-9節
1さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった。2人々が東の方へ移動したとき、彼らはシンアルの地に平地を見つけて、そこに住んだ。3彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作って、よく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを、漆喰の代わりに瀝青を用いた。4彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」5そのとき【主】は、人間が建てた町と塔を見るために降りて来られた。6【主】は言われた。「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。7さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。」8【主】が彼らをそこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。9それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。そこで【主】が全地の話しことばを混乱させ、そこから【主】が人々を地の全面に散らされたからである。2017 新日本聖書刊行会
今日の午後、会堂建設について、建築士の方を交えての、何度目かの話し合いを持つことになっています。振り返ってみるとこの土地を取得したのがちょうど二年前のことでした。二年というと長く感じますが、実際は冬の間はあまり話し合いは進みません。去年の春から秋までは、みんなでキッチンや休息室についてあれこれ話し合いましたが、冬になると少しペースダウン、春になって雪が解けると建築事務所に依頼して図面を何度も書いてもらって、という感じで進めてきました。建築事務所の会長さんが最初に手がけた長岡の教会は、ペンギン教会という愛称だという話をしてくれました。形がペンギンに似ているだけでなく、会堂が完成するまでに何十年もかかったので、足の遅いペンギンにたとえたそうです。会長さんとメールでやりとりしたときに、豊栄はペンギンならぬオオヒシクイ教会かなという話をしました。オオヒシクイというのは福島潟のシンボルで、冬が近づくとロシアからやってきて春になるとまた帰って行きます。春から秋までは良いところまで話が進むけど冬になるとペースダウンしてしまう、うちの教会とかいうと怒られそうですが、オオヒシクイやら、蒸気船やら、シンボルになりそうなものが多くあるのは楽しいですね。駐車場の造成も含めて総予算五千万円程度という前提はありましたが、それ以外はほとんどが白紙、という中で始まったことを思い出します。話し合いを進める中で、だんだんと礼拝堂や、その他の施設のイメージが固まってくるのは、楽しい経験でした。できれば、話し合いにもっと多くの方が出席してくださればという思いはありますが、出席できない方も祈りと関心をもってくださっていることはわかります。私たちにささげることができる、最高の主の宮を求めていきたいと思います。
さて、そんな会堂の話し合いの日に、バベルの塔のメッセージというのはあてつけのように受け取られかねませんが、私たちは、誰でも入りやすいように基本、平屋の会堂を目指しているので、頂を天に届かせようという野望はありません。しかし、会堂建設というのは、人の願いが巧みに入り込んでくるものでもあります。その意味で、あえてバベルの塔の物語の中から反面教師とすべきところを学んでいくことも大切でしょう。
1節、「さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった」。高校生の頃、はじめてこの言葉を読んだとき、いいなあと思いました。世界が一つの言葉だったら、英語の授業も全然怖くないのに。しかしかつて人々が一つの言葉を持っていたという事実を、決して聖書は祝福として描いてはおりません。むしろ一つの言葉であったゆえに、ひとたび欲望に囚われた人々がまさに一つとなって、罪の坂道を転がり落ちていくさまを描いています。人々はシンアル、すなわち後のバビロン、今日のイラクのあたりですが、チグリス・ユーフラテスという大きな川に挟まれた豊かな土地を見つけ、定住を始めました。やがて彼らは、画期的な技術を手に入れます。石の代わりにれんが、漆喰の代わりに瀝青、すなわちアスファルト。この二大発明によって、それまでとは比べものにならない、高く、丈夫な建物を建てることができるようになりました。しかし人はそれによって、神への感謝を忘れ、人間の技術に頼るようになりました。それが頂点にまで達した姿が、4節です。「彼らは言った。『さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に全地に散らされるといけないから」。
このバベルの塔の出来事は、大洪水の出来事から続いています。つまり、あのノアとその息子たち、8人だけが箱船によって助かったという出来事です。箱船から下りたノアたちに神は命じました。「あなたがたは増えよ、地に満ちよ」と。神は、新しい地に降り立った人類が、全地に増え広がっていくことを願っておられたのです。しかしノアの息子たちから増えていった人類は、「われわれが地の全面に散らされるといけないから」と、神のみこころとは真逆の道を目指しました。我々人類は、我々を散らそうとする神に対抗する力を得た。そのシンボルであり、実際の砦となるのがこのバベルの塔だ。そのような高ぶりを持つに至った人々を見下ろしながら、神は言われました。6節、「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話し言葉を持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない」。
ここで「彼らがしようと企てることで不可能なことは何もない」という翻訳は注意が必要です。むしろ「彼らの企てを止めることはできない」と、今までの翻訳のようにシンプルに訳すべきでした。神は、人間にできないものは何もないと言っているのではなく、人間の欲望をとどめることは誰にもできないと語っておられるのです。人が集まり、一つの目的をもって何かを始めるということ、そのこと自体は決して罪ではないでしょう。しかし人の欲望は尽きることがありません。その欲望を満たすうえで妨げになるものは、内部の人間であろうと外部の人間であろうと、容赦なく攻撃し、切り捨てるようになります。ロシアとウクライナ、ハマスとイスラエル、そのような人々だけではありません。家庭で、学校で、会社で、地域で、そして教会でさえ、私たちは一つの欲望、あるいは目標と言い替えることもできる、そこに加わらない人を批判し、攻撃し、排除していくということさえあるのです。
しかし私たちは、神が与えてくださった真理を知っています。私たちが一つになるというのは、同じ目標を持っているから一つになるのではない。イエス・キリストというお方が私たちのために死んでくださったという一つの信仰ゆえに、私たちは一つになる、いや、すでに一つにされているのです。人間や組織に、どんなに崇高な目標があったとしても、それに従わない、従えない人に対しては、排除と切り捨てが生まれます。しかし私たちがキリストにあって一つとされているという信仰は、高ぶりではなく謙遜をもたらします。排除ではなく悔い改めをもたらします。切り捨てではなく、キリストをもたらします。最後はだじゃれですが。
もちろん、会堂建設というのも一つの目標です。しかしその目標が私たちを一つにするのではない。私たちがキリストにあって、すでに一つとされている、それを信じる信仰が大切です。バベルの塔を見るために下りてこられた神は、二千年前、ベツレヘムの家畜小屋にまで実際に人の姿で降りてきてくださいました。バベルにおいては人々の言葉を混乱させるために下りてこられましたが、今は混乱ではなく、和解と喜びを与えるために私たちの中に生きておられます。これがすべてです。会堂建設は私たちにとって恵みですが、それは、キリストが私たちのために命を捨ててくださったという信仰を一人ひとりが持っていることに勝るものではありません。ささげていない、協力しない、といったことでさばき合う世界ではなく、一人ひとりが救われたことを喜びながら、神様に最上のものをおささげする、ということを忘れないでいきたいと思います。私たちはすでにキリストにおいて一つとされています。このキリストから目を離すことなく、お互いを受け入れ合っていくことを忘れずに歩んでいきましょう。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』5章1-9節a
1その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。2エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。3その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。5そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。6イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」7病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」8イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」9すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。2017 新日本聖書刊行会
今日の聖書箇所は、38年間病気にかかっている人のいやしの物語ですが、ちょうど今から38年前、14歳の誕生日を迎えた直後に、私も大学病院で病気が見つかったときのことを思い出します。いまは医師が病気のことを説明しないで治療を始めるということはあり得ませんが、当時は、病人の気持ちを考えると本当のことを話さないほうがよい、という時代です。「ばい菌が骨に入った」と言われましたが、ずっと後になって知らされたのは、若年性骨肉腫という、やっかいな癌の一種でした。当時の主治医はもう亡くなっているのですが、その後を継いだ先生が言うには、じつは当時、私と同じ病気でその大学病院に入院してきた小児患者で、5年以上生き延びた人は誰もいなかったそうです。今はすでに完治と言いたいところですが、再発の危険も決してゼロではないということでした。でも本来は5年生きられなかったはずが、すでに50歳を超えるほどに人生を味わうことができましたので、何が起ころうとも、あらゆることは恵みと思っています。
3節をお読みします。「その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた」。なぜそんなにたくさんの人々がこの池の回りに集まっていたのか。それはときどきこの池の水面が大きく揺れることがあり、その時に最初に入った者はどんな病気でもいやされる、そういう噂があるからでした。人々は、文字通り、わらをもつかむ思いでこの池に運ばれてきました。そして、横になっていた、とあるように普段は死んだようにじっとしている。いつ来るかわからない、水が動く時をひたすら待つ。そしてときどき、何の前触れもなく、水面が揺れる。そのとき、病人、目の見えない人、足が動かない人、やせ衰えた人、そういった人々が一斉に恥も外聞もなく、声をあげながら、押し合いへし合い水面へ向かっていく。いやしの特権を受け取る者は唯一人だけ。恥も外聞もありません。前を行く者の足をつかみ、踏みつけ、自分だけはよくなりたい。そんな人々のエゴが現れる、ベテスダの池の水はいつも黒く濁って見えたことでしょう。
5節、「そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた」。この人にとっての38年間は、目の前で人々が水へ入っていくのをただ眺めるしかできなかった38年間でした。しかし彼にとって無益な時間に見えても、それはイエス・キリストと出会うために必要な38年間だったのです。神は私たちを母の胎内にいるときから見つめておられます。いや、もっというならば、はるか昔にこの世界が造られる前から、私たちを救いへと定め、選んでおられたとパウロはエペソ教会にあてた手紙の中で記しています。私たちとイエス様との出会いに偶然はありません。この人も、定められた時に、定められた所で、イエスに出会い、救いへの招きをいただきました。それが病気になってから38年目、彼に与えられた恵みでした。
それにしてはイエス様の言葉はそっけないように見えるかもしれません。「良くなりたいか」。しかし天地の基が定められるよりも前から彼を選び、見つめ、探しておられた神であるイエス様が、どうしてそっけないことがあるでしょうか。「良くなりたいか」。それはそっけなさではなく、直球勝負です。余計な言葉を何一つ付け加えず、イエスはただまっすぐに、彼の心に向かってひとつのボールを投げ込みました。しかしバッターボックスに座り込んだこの人は、イエス様の直球勝負に対して、打ち返そうとしません。「良くなりたいか」にカキン、「よくなりたい!」と答えないのです。代わりにぐずぐずとこんなことを言い始めました。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます」。
38年間、目の前で他の人が池に入っていくのをただ見つめるだけだった彼は、いつのまにか、「良くなりたい」という率直な思いさえも口にできなくなっていました。38年間、病気と共に歩むなかで、彼の心の中に生まれ、心の中心を支配していたのは、他人との比較でした。他の人には助けてくれる人がいる。しかし自分にはいない。ですがこのいいわけじみた言葉の中に、小さなダイヤのようにきらめいている単語があります。それは「主よ」という第一声です。彼は目の前にいるイエスを、「主よ」と呼びました。自分に話しかけてきた者がだれかはわからない、しかしここで座り込んで生きるしかない私を超えている方と認めました。そして、私たちが勝利の人生を歩むのに必要なのはその一語なのです。たとえ八方ふさがりの人生であっても、自分では何もできないという焦りの中でも、ただ「主よ」とイエスに答えるなら、ただイエスの憐れみにすがるなら、私たちのうえに、イエスの力強いみわざが現れるのです。
8節をご覧下さい。「イエスは彼に言われた。『起きて床を取り上げ、歩きなさい』」。この単純なことばだけで、神はこの人の人生を変わました。「すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した」。38年間、伏せっていた人が、ひとつの言葉だけで、一瞬のうちに床をあげることができるようになる。私たちには信じられないことです。しかしこれは事実です。神の言葉は本当に単純です。シンプルです。だけど確実に人を変えます。
ナポレオンの有名な言葉に、「我が輩の辞書に不可能という文字はない」というものがあります。しかし実際のナポレオンの言葉は、「不可能の一字は、ただ愚人の辞書にのみあり」というものでした。不可能という言葉は、愚かな人が発する言葉である、という意味です。「もうだめだ」「そんなの無理だ」と私たちは言いたがるものですが、それは愚かな人の常套句である。私たちにはできないことでも、神にはできる。そして神は、愛する者に常に目を注ぎ、そして不可能を可能にさせてくださる。パウロはピリピの教会へこう書き送っています。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」。また彼はローマの教会にはこうも書いています。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」。
たとえ私たちを取り巻いている現実が絶望的なものであったとしても、「主よ」と呼びかけることができる幸い。それが、この38年間、病に苦しんでいた人にも与えられていました。時として、私たちは神のことばに正面から答えることができず、言い訳をしてしまうときもあります。それでも、「主よ」と一言答えるならば、主は私たちを立ち上がらせてくださいます。一人ひとりが恵みをかみしめて、歩んでいきましょう。
聖書箇所 『創世記』23章1-20節
1サラの生涯、サラが生きた年数は百二十七年であった。2サラはカナンの地のキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは来て、サラのために悼み悲しみ、泣いた。3アブラハムは、その亡き人のそばから立ち上がり、ヒッタイト人たちに話した。4「私は、あなたがたのところに在住している寄留者ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。そうすれば、死んだ者を私のところから移して、葬ることができます。」5ヒッタイト人たちはアブラハムに答えた。6「ご主人、私たちの言うことをお聞き入れください。あなたは、私たちの間にあって神のつかさです。私たちの最上の墓地に、亡くなった方を葬ってください。私たちの中にはだれ一人、亡くなった方を葬る墓地をあなたに差し出さない者はおりません。」7そこで、アブラハムは立って、その土地の人々、ヒッタイト人に礼をして、8彼らに告げた。「死んだ者を私のところから移して葬ることが、あなたがたの心にかなうのであれば、私の言うことをお聞き入れくださり、ツォハルの子エフロンに頼んでいただきたいのです。9彼の畑地の端にある、彼の所有のマクペラの洞穴を譲っていただけるようにです。十分な価の銀と引き換えに、あなたがたの間での私の所有の墓地として、譲っていただけるようにしてください。」10エフロンはヒッタイト人たちの間に座っていた。ヒッタイト人のエフロンは、その町の門に入るヒッタイト人たち全員が聞いているところで、アブラハムに答えた。11「いいえ、ご主人。どうか、私の言うことをお聞き入れください。あの畑地をあなたに差し上げます。そこにある洞穴も差し上げます。私の民の者たちの前で、それをあなたに差し上げます。亡くなった方を葬ってください。」12アブラハムは、その土地の人々に礼をし、13その土地の人々の聞いているところで、エフロンに告げた。「もしあなたが許してくださるなら、私の言うことをお聞き入れください。畑地の価の銀をお支払いします。どうか私から受け取ってください。そうすれば、死んだ者をそこに葬ることができます。」14エフロンはアブラハムに答えた。15「では、ご主人、私の言うことをお聞き入れください。銀四百シェケルの土地、それなら、私とあなたの間では、何ほどのこともないでしょう。どうぞ、亡くなった方を葬ってください。」16アブラハムはエフロンの申し出を聞き入れた。アブラハムはエフロンに、彼がヒッタイト人たちの聞いているところでつけた価の銀を支払った。それは商人の間で通用する銀四百シェケルであった。17こうして、マムレに面するマクペラにあるエフロンの畑地、すなわち、その畑と、畑地にある洞穴と、畑地の周りの境界線内にあるすべての木は、18その町の門に入るすべてのヒッタイト人たちの目の前で、アブラハムの所有となった。19その後アブラハムは、マムレに面するマクペラの畑地の洞穴に、妻サラを葬った。マムレはヘブロンにあり、カナンの地にある。20こうして、この畑地とその中にある洞穴は、ヒッタイト人たちの手から離れて、私有の墓地としてアブラハムの所有となった。2017 新日本聖書刊行会
1節と2節をお読みします。「サラの生涯、サラが生きた年数は百二十七年であった。サラはカナンの地のキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは来て、サラのために悼み悲しみ、泣いた」。
聖書が記録しているところによれば、アブラハムがその人生の中で涙を流した場面は、ここだけです。こう言うとまるでアブラハムが冷たい人間のように受け取られるかもしれませんが、私が伝えたいのは、自分の子イサクをささげよ、という神からの過酷な命令を受け取ったときにも涙を流さなかったアブラハムが、妻の亡骸の前で号泣している、ということです。日本のブライダルでは、結婚25周年は銀婚式、50周年は金婚式と言われますが、最高は結婚70周年のプラチナ婚式だそうです。127歳で亡くなったサラとアブラハムとのの結婚生活は、70年どころか、もしかしたら百年を超えていたかも知れません。
アブラハムの生涯を振り返ってみると、サラとの出会いがどのようなものであったかは詳しくは書いてありません。しかしアブラハムが、サラを父は違うが妹だと言い張っているところがあり、親戚同士、幼なじみのような関係の中で結婚に導かれたのでしょう。そのアブラハムが、真の神に招かれてカナンへと旅立ったときも、誘惑に負けて罪を犯してしまったときも、そのかたわらにはいつもサラがいました。結婚式の誓約に、健やかなる時も病める時も、というのがありますが、アブラハムが信仰にあふれたときも、不信仰に悩むときも、そばにはいつもサラがいました。成功も失敗も、感謝も悔い改めも、アブラハムと常に共有していたサラは、アブラハムにとって、妻である以上に、相棒と呼ぶ方がふさわしい、それがサラでありました。
今日の聖書箇所は言うまでもなくサラの死と葬儀を描いた箇所ですが、同時にこの箇所は、アブラハムが息子イサクをいけにえとしてささげよと命じられた出来事の後に描かれています。そのところは先日この礼拝説教で語りましたが、息子をいけにえとしてささげるという大切な場面なのに、サラは一度も出てきません。まるで父子家庭に起こった出来事のように、母親であるサラ抜きで、淡々と一人息子のイサクをいけにえにささげるための旅が始められていきます。では本当に、アブラハムは妻サラに何も伝えずに、イサクを連れて出ていったのでしょうか。そんなことがあるはずがないのです。信仰の試練である、イサクをいけにえにささげよという命令は、アブラハム個人への試練ではなく、一組の夫婦に対する試練でした。もしアブラハムがこのことをサラに内緒で行ったとしたら、すでにその段階で、彼はこの信仰のテストに不合格です。信仰とは一匹狼ではなく、夫婦、家族、同じ兄弟姉妹のあいだで成長していくものなのですから。しかしイサクをいけにえにささげるとき、母サラについて一切記されていないのは、すべてをアブラハムにゆだねていたからでしょう。彼女は黙ってアブラハムとイサクをモリヤの山へ送り出し、そして彼らの信仰の勝利を見届けたあと、静かに地上を去っていきました。アブラハムは彼女が与えてくれたすべてを思い起こしながら、ヘブロンにある墓の前で涙を流し、嗚咽をもらしました。
しかしこのときアブラハムは、サラが与えてくれた最も大きいものは、じつは過去にではなく今ここにあることに気づいたことでしょう。それは、サラがヘブロンで死んだ、ということです。アブラハムが住んでいたベエル・シェバではなく、彼女はヘブロンで死にました。じつはこの23章の直前、22章の終わりには、アブラハムとイサクがあの試練のあと、ベエル・シェバに移り住んで、そこで暮らしたと書いてあります。ヘブロンとベエル・シェバのあいだは50キロ離れています。サラが彼らと別居生活を送っていたというのは考えにくいことです。なぜサラはベエル・シェバではなく、ヘブロンで死んだのでしょうか。いろいろな想像を働かせることはできますが、これはサラが夫に残した、最後にして最大の贈り物、信仰の教材でした。彼女は墓の中から夫に呼びかけます。私たちは寄留者でしょう、と。寄留者というのは、自分の国籍は天にあると告白する者たちです。地上で財産や子孫を増やしていくことに執着せず、ここは永遠の都への通過地点に過ぎないと告白する者たち、それが寄留者であり、同時に信仰者である私たちの姿です。
どんな人も、年をとると、守りの人生に入るものです。からだが少しずつ弱っていく中で、どうしてもそうなるものです。アブラハムであってもそうでしょう。しかし信仰は、「どうしてもそうなる」という人間の生き方さえも超えていくものです。年をとったアブラハムが、今までのように寄留者として生きることに疲れ、ベエル・シェバという一つの町に居場所を定めたのに対し、サラは死の直前まで寄留者であり続けました。彼女がベエル・シェバではなく、ヒッタイト人の町であったヘブロンで死んだのは、私たちは死に至るまで寄留者であり、本当の住まいは天にあるのだと思い出させようとしたとは言えないでしょうか。それはアブラハムだけではなく、私たちにも向けられています。
アブラハムは、サラの死を聞き、ベエル・シェバからヘブロンにやってきました。そして最後の最後まで寄留者として生きようとしたサラの意思を継ぎ、このヘブロンに彼女を葬りました。彼は4節でこう言います。「私はあなたがたのところに在住している寄留者です」。サラが寄留者として死んだように、私も寄留者です、という告白です。そしてこのときにアブラハムが購入し、サラの亡骸を納めた墓には、その後アブラハム、イサク、その妻リベカ、またヤコブ、そしてその妻レアと多くの人々が納められていきました。いまも、聖地旅行でイスラエルを訪れる人は、必ずヘブロンにある彼らの墓を訪れます。あまりにも古いので、本当にそこが墓地であったのかはわからないくらいに変わってしまっているそうですが、それでもサラから始まる、寄留者として生き、死んでいった信仰者たちの生き方は、今も訪れる者たちの心に感動を与えます。
私たちクリスチャンは、墓にこだわることはありません。しかしイエス・キリストが私たちに与えてくださった永遠のいのちを信じています。そして地上の生涯がたとえ人からは評価されず、報われないもののように見えても、私たちの国籍は天にあり、イエス様が私たちを迎え入れてくださるのだと信じています。この地上で、私たちは神様から多くの祝福を受け取ります。しかし本当の祝福は、そして地上のどんな祝福が束になってもかなわないほどの祝福が、私たちの人生のはるか先に待ち受けていることを信じましょう。それが、キリストを信じた者たちに必ず与えられている特権です。一人ひとりが、どのようなときにおいても、地上の有様に失望することなく、天を見上げて、そこにおられる神様から目を離すことなく歩んでいくことができるように。
聖書箇所 『マタイの福音書』25章14-30節
14天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。15彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。するとすぐに、16五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。17同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。18一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。19さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした。20すると、五タラント預かった者が進み出て、もう五タラントを差し出して言った。『ご主人様。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、私はほかに五タラントをもうけました。』21主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』22二タラントの者も進み出て言った。『ご主人様。私に二タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、ほかに二タラントをもうけました。』23主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』24一タラント預かっていた者も進み出て言った。『ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。25それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。』26しかし、主人は彼に答えた。『悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。27それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。28だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。29だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。30この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』2017 新日本聖書刊行会
しばらく前に、今日の聖書箇所とそっくりなたとえ話をルカ福音書から語らせていただきました。両方とも、主人が何人かのしもべたちにお金をあずけて、自分が不在の間にこれで商売をしなさいと命じるところは同じなのですが、ルカのほうではしもべたちはそれぞれ同じ一ミナを預けられているのに対し、マタイのほうではある者は五タラント、ある者は二タラント、ある者は一タラントと、預けられた金額が異なっています。ルカのほうの「一ミナのたとえ」を語ったからには、マタイのほうの「タラントのたとえ」にも触れておく必要があると思い、今日の箇所を選びました。
ルカのほうでは、それぞれに預けられた一ミナは、福音、あるいは福音を信じる信仰を表しています。信者それぞれに違いはあっても、信じている福音は同じ、信仰は同じという共通性が語られているわけです。しかし今日のマタイのほうでは、このタラントは、それぞれの信者に与えられている賜物を表しています。それぞれに与えられた賜物は、ひとつとして同じものはありません。しかし神は私たちが異なる賜物を組み合わせて、神の国を協力して建て上げていくことを願っておられます。ですから今日のタラントのたとえ話は、しもべたちがそれぞれの営業成績によって評価される、どこかの会社のような光景ではなく、五タラント預けられた者、二タラント預けられた者、一タラント預けられた者、彼らが本来、それぞれゆだねられた異なるタラントを補い合い、力を合わせて、主人を喜ばせていくことが求められていたと言えるでしょう。しかしこの一タラントをゆだねられた者は、協力どころか、これを使って商売しなさいという主人の命令に忠実に向き合おうとしませんでした。そのような不信仰に対する警告が与えられているのです。
ルカ版で登場する一ミナは、当時の労働者の100日分の日給にあたります。日雇いで働く人がざっくり一日働いて一万円をもらえるとしたら、一ミナは百日分ですので、100万円。この数字、ちょっと頭に入れてください。それに対して、一タラントは一ミナの60倍にあたります。一ミナが100万円だとしたら、一タラントは6千万円ですね。二タラントは1億2千万円、五タラントは3億円です。3億円あずけられてもう3億円ふやして6億円になりました、というこのたとえ話は、ちょっと私たちの金銭感覚を超えていて現実感がないのですが、それだけ、神が私たち一人ひとりに与えてくださった賜物はかけがえのないものなのだ、ということです。そして一タラントをあずけられたしもべは、何もしないで地面にうめていたのですが、この一タラントにしたって、6千万円。じゅうぶんに大きな金額です。しかし彼は、自分に与えられたこの一タラントをあまりにも過小評価していました。それは、神が自分をいかに尊いものとして造ってくださったかということを過小評価しているということに他なりません。そして、今日、自分自身をつまらない者と考えて人生を自ら息苦しくさせている人がいかに多いことでしょうか。
今から十年くらい前の調査ですが、アメリカ、中国、韓国、日本の四カ国の高校生に対し、「自分は価値があると思うか」という質問をした結果があります。アメリカの高校生は、「自分は価値があると思う」に89%、つまりほとんどの人がイエスと答えました。中国の高校生も88%ですので、ほとんどアメリカと同様です。韓国の高校生は75%、四人に三人が「自分は価値がある」と答えました。では日本の高校生はどうであったか。36%しか「自分は価値がある」という回答がなかったそうです。逆に言えば、64%、3人に二人が自分には価値がないと考えている。さらに正確に言えば、「あまり価値がない」と考えているのが全体の46%、「まったく価値がない」と考えているのが全体の18%にも達します。
この結果に対し、ある有名な教育評論家は「日本人はほめられるという経験が幼少期に少ないから、こうなるのではないか」と語っていましたが、中国や韓国などでは幼子をよくほめるという話はそれほど聞いたことがありません。むしろもっと根本的な原因があるのではないかと思うのです。ほめられることは人間の成長にとって大事な経験ですが、もっと大事なことは、失敗してもけなされない社会ということなのかもしれません。失敗を恐れない、言葉を換えれば、失敗してもそれを糧として受け入れることができる空気がある、ということでしょうか。
神様にとって、5タラントを10タラントに増やした人も、2タラントを4タラントに増やした人も、同じく、忠実なしもべです。その証拠に、神様はどちらにも同じ言葉でほめています。21節と23節を並べてみると、まったく違っていないことがわかります。「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」
つまり、結果の多い少ないは問題ではないのです。問題は、自分が主人の喜びを見るためにリスクを恐れずに働いたことそのものが主人の喜びなのだということに気づいていないことにあったのです。
人間は、他の人の容姿や能力、性格と自分のそれを比較して、自分なんて、と考えやすいものです。しかし自分ではこんなつまらない人間と思っていても、神様から見たら、大変高価な一タラント、かけがえのない存在なのです。神様が自分に与えてくださったもの、否、自分自身をどれだけ尊いものとして見ておられるのかがわからないと、この最後に登場するしもべのように、神は私たちが失敗したら容赦なくさばくような恐ろしい方だと誤解するようになります。クリスチャンが与えられた賜物を生かそうとしないならば、神のものを無駄にして神ご自身を悲しませます。しかし賜物を用いることを通して私たちは訓練されます。賜物を生かさずに放置していくことは、かけがえのないオンリーワンとして成長するはずの、自分自身の価値をも損なっていくことになります。キリストがいのちを捨ててまで救ってくださったほどの者たちが、自分にゆだねられた賜物の大きさに気づかないほど、悲しいことはありません。私たちは、自分自身がキリストの十字架によって、神さまにとっていかにかけがえのない、神のこどもとされたかということを忘れずに、自分自身を神様のために用いていきましょう。
聖書箇所 『創世記』22章1-14節
1これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。2神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」3翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。4三日目に、アブラハムが目を上げると、遠くの方にその場所が見えた。5それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言った。
6アブラハムは全焼のささげ物のための薪を取り、それを息子イサクに背負わせ、火と刃物を手に取った。二人は一緒に進んで行った。7イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」彼は「何だ。わが子よ」と答えた。イサクは尋ねた。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」8アブラハムは答えた。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」こうして二人は一緒に進んで行った。9神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。10アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
11そのとき、【主】の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」12御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」13アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。14アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「【主】の山には備えがある」と言われている。2017 新日本聖書刊行会
新約聖書の中には、「試練」という言葉が数多く登場します。その中の一つに、パウロのこんな言葉があります。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます」(第一コリント10章13節)。
神は決して、耐えることのできないような試練を与えません。人は試練の中で、私はこの苦しみには耐えられない、と嘆きます。しかしじつはそうではないのです。神は、私たちがその試練に耐えられることを知っておられるからこそ、その試練を与えられます。人は試練の中で、なぜよりによって私がこんな目に、と叫びます。しかし神は、私たちを特別に、かけがえのない者としてご覧になっておられるからこそ、試練を与えられます。その意味で、試練とは、私たちが神の子どもとして愛されていることの証明書に他なりません。
私たちがもし試練に耐えられないのであれば、最初から試練に会わせるようなことはありません。しかし私たちが信仰者として練られるために、神は最もふさわしい時に試練を与えられるのです。アブラハムにとって、まさに今がその時でした。1節後半には、アブラハムが神からの呼びかけを聞いた時、「はい、ここにおります」と、打てば響くような答え方をしている様子が描かれています。この試練は、信仰の教室です。教師は神、生徒はアブラハム。そして教師は生徒が十分な知識と力を持っていると認めたからこそ、テストを与えました。もしまだその力がないとわかっていたら、テストを延期したことでしょう。しかしアブラハムは、信仰の教室における、それまでのカリキュラムを通して、明らかに試練に耐えうる信仰にまで達していました。「はい、ここにおります」という返事、それはアブラハムの信仰の成熟ぶりを教えています。
神が「イサクをささげなさい」とアブラハムに命じた命令は、アブラハムにとってはどんなに考えても理解不能なものでした。アブラハムの信仰の生涯も、神の計画も、すべてイサクを中心に動いているのではなかったか。神よ、なぜですか。どうしてですか。それは決して理性では受け入れることのできない事柄でした。しかし神はアブラハムに理由を語らなかったし、アブラハムも神に理由を尋ねなかった。ただ、彼はひたすら神の命令に従い、イサクと数人の若者を連れてモリヤの地に旅立ちました。信仰には理由は必要ありません。神のみこころはこうだから、という推測は決してアブラハムの中にはありませんでした。ただあったのは神の約束への確信でした。死んでいるも同然の私たち夫婦に、神はイサクというひとり子を与えてくれた。死んだ者を生き返らせることのできる方にはそれができた。ならばイサクもまた、神はよみがえらせることができるお方なのだ。その信仰の確信が「私と息子はあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」という言葉を語らせたのです。
7節で、イサクは父にこう問いかけます。「火とたきぎはありますが、全焼のささげものにする羊は、どこにいるのですか」。アブラハムはその時、「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげものの羊を備えてくださるのだ」と答えています。これはその場を取り繕うための言い逃れでしょうか。そうではありません。アブラハムの心からの確信からにじみ出た言葉でした。アブラハムの生涯の中で、神はいつも彼の必要に答えてくださいました。そして決してその信頼を裏切るようなことはありませんでした。「神ご自身が、全焼のささげものの羊を備えてくださる」。これは私たちにも与えられている、約束の言葉でもあります。
9節をお読みします。「神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いてたきぎを並べた」。彼らがどのような思いでこの場に到着したのか、その心の動きにはまったく触れられません。まるで事務作業をこなすかのように淡々と準備を進めていくアブラハム。百歳をゆうに超える年老いた父親に、協力的に縛られていく青年イサク。ここにも、その心の中に揺れ動く炎のような思いは見えません。刀をつかんだ手にねばりつく脂汗も、両者の目に浮かんだ涙さえも、聖書はまったく描こうとしません。しかしそれこそがまさに重要なことなのです。聖書は淡々とただ行動だけを語ります。人の心の内を語らずに、ただ何をしたかという行動だけを語ります。それは決して、神が人の心の中身に無関心だということではありません。むしろ、アブラハムが後にこの地を名付けた「アドナイ・イルエ」とは、主が見ておられるという意味です。
彼は、この場で確かに主が彼らの心の思いをご覧になっていたという確信を持っていました。そうです、神は私たちの心の思いをすべて知っておられるのです。そしてその上で、私たちに行動を求められます。ここに私たちは、あの有名なヤコブ書の言葉、「行ないのない信仰は死んでいる」というみことばの意味を見いだすのです。信仰とは、単に心の中の問題ではありません。神様を信じたら、心の中に何となく平安が生まれましたといったところにとどまるものではありません。信仰は神のために何をささげるのか、という行動へと私たちを導きます。アブラハムは、確かに心からイサクを愛していました。しかし神のために何をささげるのかという信仰が、イサクをいけにえにささげよという命令に、すぐに従うという驚くべき信仰、そして行動へと導いたのです。
パレスチナでは、イスラム原理主義の武装組織が、神のためと称してテロを行っています。ではあれも信仰と呼べるのでしょうか。悲しいことですが、あれは信仰ではありません。狂信であり、妄信です。現代人から見たら、アブラハムが自分の子ををいけにえとしてささげたことも気が狂っていると見えるでしょう。しかしアブラハムが今まさに刃を振り下ろそうとした時、天から自分を呼ぶ声が聞こえました。その時、彼は即座に「はい。ここにおります」と答えています。それは彼が決して狂信者ではなく、神の細い御声を聞きとることのできる、砕かれた心を持っている、信仰者であったからです。神はアブラハムに言われました。12節、「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった」。
そしてこのモリヤの山の上に建てられたエルサレムで、今度は父なる神さまご自身が、ご自分のひとり子であるイエスを十字架でささげてくださいました。それは、あなたのためであり、私のためです。あえてみんなのためと言わないのは、キリストは、あなたとの一対一の関係の中で、あなたを愛し、あなたのために死んで下さった方。たくさんいる人類のひとりという目線ではなく、だれも代わることのできない、たったひとりのあなたという個人的な愛の関係の中で、あなたのために死んで下さった方なのです。だからこそ、私たちは、ひとりで神の前に立ち、イエス・キリストを救い主として信じますと告白します。家族が信じているから、というのではなく、ひとり一人が自分の言葉で、自分の心で、自分の行動で、イエス・キリストをはっきりと信じています。どうかひとり一人が、このイエス・キリストを改めて心にお迎えし、何をささげていくのかということをかみしめる一週間でありますように。
聖書箇所 『創世記』21章1-21節
1【主】は約束したとおりに、サラを顧みられた。【主】は告げたとおりに、サラのために行われた。2サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。3アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。4そしてアブラハムは、神が命じられたとおり、生後八日になった自分の子イサクに割礼を施した。5アブラハムは、その子イサクが彼に生まれたとき、百歳であった。6サラは言った。「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう。」7また、彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子に乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、主人が年老いてから子を産んだのです。」
8その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。9サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、イサクをからかっているのを見た。10それで、アブラハムに言った。「この女奴隷とその子を追い出してください。この女奴隷の子は、私の子イサクとともに跡取りになるべきではないのですから。」11このことで、アブラハムは非常に苦しんだ。それが自分の子に関わることだったからである。12神はアブラハムに仰せられた。「その少年とあなたの女奴隷のことで苦しんではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。というのは、イサクにあって、あなたの子孫が起こされるからだ。13しかし、あの女奴隷の子も、わたしは一つの国民とする。彼も、あなたの子孫なのだから。」
14翌朝早く、アブラハムは、パンと、水の皮袋を取ってハガルに与え、彼女の肩に担がせ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女は行って、ベエル・シェバの荒野をさまよった。15皮袋の水が尽きると、彼女はその子を一本の灌木の下に放り出し、16自分は、弓で届くぐらい離れた向こうに行って座った。「あの子が死ぬのを見たくない」と思ったからである。彼女は向こうに座り、声をあげて泣いた。17神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神が、あそこにいる少年の声を聞かれたからだ。18立って、あの少年を起こし、あなたの腕でしっかり抱きなさい。わたしは、あの子を大いなる国民とする。」19神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで、行って皮袋を水で満たし、少年に飲ませた。20神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。21彼はパランの荒野に住んだ。彼の母は、エジプトの地から彼のために妻を迎えた。2017 新日本聖書刊行会
今日の聖書箇所も、アブラハムの家庭に起こる事柄を通して、神が彼の信仰を成長させていく姿が描かれています。アブラハムに、あなたの子孫によって世界は祝福されるという約束が与えられてから、このイサクの誕生まで、じつに25年という歳月がかかりました。25年!よくぞ一つの約束を信じ続けることができたものかと思います。その約束とは裏腹に、25年間で自分も妻も一日一日、体が衰えていく姿を彼は感じ続けたことでしょう。財産は増えても、その財産が原因で甥ロトと別れ、そしてロトの一家はアブラハムの手の届かないところに行ってしまいました。三浦綾子さんはある本の中で「出口のないトンネルはない」という言葉に励まされたと書いておられましたが、神は愛する者に、なぜそのような長いトンネルを通らせることをなさるのでしょうか。
それは彼が自分の肉の思いを捨て去るまでに、信仰が練られるためでした。25年の間で、彼らは自分がもう絶対に子どもなど生むことのできる体でないことを痛感したことでしょう。しかしそれは痛みのように見えて、じつは恵みそのものでした。人間的な希望がすべて砕かれるとき、そこに全能の神の、大いなる御手のわざが働かれる。もうどんなにがんばっても子どもを生める体ではない、アブラハムとサラがそのように自分に頼ることをやめた時、彼らは本当に神に頼ることを知ったのです。最初の段落にある、サラの言葉はそのことを告白しています。自分も含めて、この世の誰もが子どもなど生まれるわけがないと思っていたのに、神は子どもを与えて下さった。神の笑い、それはただ神の力にだけより頼む者を泣き顔から満面の笑みに変えて下さる。私たちもまた、出口の見えないトンネルに突入して久しいとしても、必ず出口はある。そして神の民としてふさわしい練られた信仰を与えられて出口をくぐることができるのです。
しかしイサクが生まれたのも束の間、二、三年もすると新たな事件が起こりました。8節、9節をお読みします。「その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、イサクをからかっているのを見た」。
イサクが乳離れしたのが3歳くらいとすれば、先に女奴隷ハガルのあいだに生まれていたイシュマエルは14歳年上の17歳。17歳が3歳の子をからかう行為は、当時にしても異常です。イサクの母サラが、ハガルとイシュマエルを追い出してくれと頼んだのも、決して根拠のないことではありませんでした。しかしどちらもアブラハムの血をひいた子どもです。しかしイサクを思うサラの情愛も、アブラハムの目には偏った愛情と見えたかもしれません。このことで、アブラハムは非常に苦しみました。きっとそこで彼は様々な改善策を考えたことでしょう。あくまでイサクが跡継ぎであるとイシュマエルによく言い聞かせて二人仲良くやっていけるのではないか。あるいは、ある一定期間だけ二人を離して生活させるとか、何か方法があるのではないか。イサクもイシュマエルも同じ血を分けた兄弟なのに、なぜ一方だけを追い出さなければならないのか。
しかし、私たちはその中で彼が選んだ行動を模範としましょう。ここで彼は信仰の父としてふさわしい行動を選びました。それはただ神のことばを待つということでした。そして神は、アブラハムがどうすべきか、はっきりと彼に語ってくださったのです。12節をご覧ください。「神はアブラハムに仰せられた。
『その少年とあなたの女奴隷のことで苦しんではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。というのは、イサクにあって、あなたの子孫が起こされるからだ」。
サラの訴えが、アブラハムにとって受け入れがたいものであったことは、彼が苦しんだことから明らかです。しかし神は、アブラハムにとっては受け入れがたいこの提案が、じつは神にとっては最善の道であったことを明らかにされました。それは、サラが正しい道を選んだというよりは、サラにとってこれは神のためというよりは、自分の息子のためであり、自分のためでもあった。しかし神は、あらゆることを益として、ご自分の計画を達成させられるのです。私たちは信仰生活において、自分の願うところと、神が導いておられる方向がどこか違っているということを感じることがあります。神と同じ方向を向いて歩んでいるつもりでも、私たちよりも遙かに遠い所を神様は見つめておられるがゆえに、私たちにはなかなか神のみこころを受け止めることができません。
しかしアブラハムは自分の目には悪と見えるものが、神の目には確かにみこころであるということを受け入れました。ハガルとイシュマエルを追い出すことよりも、何とか努力して仲良くやっていくことのほうが良いように思われます。しかし神はこのとき、それを望まれていませんでした。たとえ悲しい別離であったとしても、その背後には、人間の感情では理解できない、しかし厳然とした神のご計画があったのです。しかし自分の計画ではなく、神のみこころがなされますようにと祈る時、私たちの心には平安があります。神はアブラハムに確かに約束されました。13節、「しかし、あの女奴隷の子も、わたしは一つの国民とする。彼も、あなたの子孫なのだから」。アブラハムにとって、イシュマエルを追い出すということは、大きな決断を必要としました。しかしこの信仰の試練は、さらに数十年後にアブラハムがイサクを神にいけにえとしてささげるというより大きな試練のための訓練となったのです。
アブラハムがみことばをいただいた翌朝、ハガルはその子イシュマエルと共に荒野をさまよい歩きます。やがて水や食料も尽きてしまい、イシュマエル共々、荒野の真ん中で死を待つばかりとなりました。彼女は、自分たちを追い出したアブラハムとサラの信じる神に頼りたくなかったのでしょうか。イシュマエルが死にかけて声をあげて泣きはしても、それでも神を求めません。「子どもが死ぬのを見たくない」と言いながら、父なる神が、いま、ハガルやイシュマエルの苦しみをどのような思いで見つめ続けているのか考えられません。
しかしその時、イシュマエルの唇はかすかに動いていました。彼は神に助けを求めていたのです。その声にならない叫びは、ハガルには聞こえなかったが、神のもとには確かに聞こえていました。17節、「神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神が、あそこにいる少年の声を聞かれたからだ。立って、あの少年を起こし、あなたの腕でしっかり抱きなさい。わたしは、あの子を大いなる国民とする」。そして神がハガルの目を開いてくださったので、ハガルは井戸を見つけました。そして彼らもまた、一つの民族を立ち上げていく偉大な者となるのです。
私たちはしばしば神様の約束を忘れてしまいます。あなたを助け、大いなる者とするという約束を忘れてしまう。私たちは自分たちが必要としているものを受け取ろうと、神に両手を差し出す。しかし本当に必要なのは、両手を差し出すことではなく、私たちがすでに受け取っている祝福を見せて下さいと、両目を開かせてもらうことなのです。自分の思いではなく、ただ神のみこころだけを求める時、神はいのちと祝福を与えてくださいます。どうかひとり一人が、自分が今受けている救いの恵みをかみしめつつ、歩んでいきましょう。
聖書箇所 『ルカの福音書』19章11-27節
11人々がこれらのことばに耳を傾けていたとき、イエスは続けて一つのたとえを話された。イエスがエルサレムの近くに来ていて、人々が神の国がすぐに現れると思っていたからである。12イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。13彼はしもべを十人呼んで、彼らに十ミナを与え、『私が帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。14一方、その国の人々は彼を憎んでいたので、彼の後に使者を送り、『この人が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません』と伝えた。15さて、彼は王位を授かって帰って来ると、金を与えておいたしもべたちを呼び出すように命じた。彼らがどんな商売をしたかを知ろうと思ったのである。16最初のしもべが進み出て言った。『ご主人様、あなた様の一ミナで十ミナをもうけました。』17主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』18二番目のしもべが来て言った。『ご主人様、あなた様の一ミナで五ミナをもうけました。』19主人は彼にも言った。『おまえも五つの町を治めなさい。』20また別のしもべが来て言った。『ご主人様、ご覧ください。あなた様の一ミナがございます。私は布に包んで、しまっておきました。21あなた様は預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取られる厳しい方ですから、怖かったのです。』22主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はおまえのことばによって、おまえをさばこう。おまえは、私が厳しい人間で、預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取ると、分かっていたというのか。23それなら、どうして私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうしておけば、私が帰って来たとき、それを利息と一緒に受け取れたのに。』24そして、そばに立っていた者たちに言った。『その一ミナをこの者から取り上げて、十ミナ持っている者に与えなさい。』25すると彼らは、『ご主人様、あの人はすでに十ミナ持っています』と言った。26彼は言った。『おまえたちに言うが、だれでも持っている者はさらに与えられ、持っていない者からは、持っている物までも取り上げられるのだ。27またさらに、私が王になるのを望まなかったあの敵どもは、ここに連れて来て、私の目の前で打ち殺せ。』」2017 新日本聖書刊行会
イエス様のたとえ話には、時として理不尽に思われるようなことも出てきます。十倍、五倍もうけた人がほめられるのはわかる。しかし三番目に出てきたしもべはもうけてもいないが、損失も出していない。まあ、何もやっていないので損失が出ないのが当たり前なのですが、しかし主人の財産にマイナスを与えることはしなかった。しかも、一ミナ預けられた人は十人いたはずですが、三人目で終わりです。十倍、五倍、ゼロときたら、残りの七人は、マイナス方面に向かっていくはず。
「あなたの一ミナを使ったら逆に一ミナの借金を背負いました」
「あ、私は三ミナの借金」
「こっちは十ミナの損失ですわ」。
そんな報告が必ずあったはずですが、聖書は3人目で終わりです。あとの七人は書かれてもいない。なぜか。この主人、つまりイエス様にとって、損失を出すことはまったく問題ではなかったからです。しかし何もしなかったしもべだけは、きつくお灸を据えなければならない。損失を出すのもよい。もうけることができたらもっとよい。しかし何もしないことだけは、神のしもべ、いや、神の子どもとして選ぶべきではない。それは、私たちを信頼して、一ミナを預けてくださった、神のみこころを悲しませることだからです。
イエス様が求めているのは、一ミナを増やすことではありません。もしそうであれば、損失を出したしもべもまた、ここに出てきて、叱責を受けたことでしょう。しかし神が求めているのは、いくらもうけたかではなく、預けられたものをどう生かそうとしているかという、私たちの心です。自分はこの一ミナを増やせるかわからない、もしかしたら損失さえ有無かも知れない、でもご主人様の喜ぶ顔が見たい。だからこれを用いて、何かを始めよう、と。これが私たちと神さまとの関係です。神の子どもとされた喜びの中で従うのであって、奴隷のような恐れの中で従ってはいません。もし奴隷根性ならば、その選ぶ道はリスクのない道です。つまりほめられもしないが、怒られもしない。利益も出せないが、損失もない。一ミナをふろしきに包んだしもべは、まさにその典型でした。現状を維持すれば、それでよいだろう。しかし予想に反して、何も失っていないにもかかわらず、このしもべは叱責されました。なぜでしょうか。その現状維持は、主人を愛していないことの証明だったからです。主人を喜ばせようとしてではなく、主人の叱責を受けないために、一ミナをふろしきに包んだからです。
私たちがよいしもべと呼ばれるのは、失敗をしないからではなく、主人を愛してその願いに従うときです。このたとえ話では、この主人が身分の高い人であり、そして国民は彼が王になるのを望まなかった、ということも加えられていますが、これはイエス様がご自分の民であるユダヤ人から退けられたということを表しています。これも含めて、神様は、私たちがどの道を選んで生きていくのかと呼びかけておられるのです。神様を、自分の主人として喜んで愛する人生か。それとも神様を、私の失敗をあげつらってさばく、恐ろしい方として逃げるのか。私の心の中に入ってきてくださいと願うのか、それとも私の人生には関わらないでほしい、不都合な存在として拒み続けるのか。もちろん、私たちクリスチャンは、この方を愛し、その喜ぶ顔が見たいという生き方でしょう。だからこそ忘れないでください。私たちはイエス様に、奴隷のように、恐怖をもって仕えるのではありません。私を子どものように愛し、しもべとして認めてくださる方が預けてくださった一ミナを握りしめていきましょう。
この「一ミナ」は、クリスチャン一人ひとりにゆだねられた「みことば」を指しています。みことばは決してお金儲けの道具ではありませんが、それぞれがゆだねられたみことばを地道に蒔いていくならば、十倍、五倍どころか、数字では言い尽くせない、救いという豊かな実を結びます。しかしもし私たち自身が、みことばの力を信じず、それを地に埋めているならば、イエス様は悲しまれます。この三番目のしもべは、自分に預けられた一ミナに隠されている、大いなる力を信じませんでした。しかしみことばは、私たちにいのちを与えるものです。そして今もみことばは私たちの中に働き続け、私たちの心の中で成長し続けています。私の人生を変えたみことばが、私たちを通して他の人々の人生も変えていくのです。私たちは奴隷根性ではなく、喜びをもってこれを伝えていきます。私たち自身は小さな者でしかありません。しかしその小さな者たちひとりひとりが、この一ミナ、すなわちみことばを世に向かって伝えていくとき、何が起こるのでしょうか。神様が町を与えてくださいます。ある者は十の町を任せられ、ある者は五つの町をゆだねられました。一ミナは、現代の価値にすればせいぜい60万円程度。十ミナをもうけたとしても600万円、現代では中古住宅一軒買うこともできません。しかしすべての人の造り主である方は、私たちがみこころに忠実に歩もうとするとき、この世をゆだねてくださいます。大切なのは、預けられた一ミナを、神を喜ばせるために何とかして増やしていこうとする内なる思いです。そのような人々に、神はこの世をゆだねられるのです。
聖書は失敗しないためのマニュアルではありません。クリスチャンであっても失敗します。しかしクリスチャンは成功、失敗という色眼鏡を通して人生を評価する愚かさから解放されています。神さまは成功か、失敗かということを私たちの評価基準としては問われないお方であるからです。仮にこのしもべがその一ミナを使ってそれを失ってしまったとしても、主人は彼にその責任は問いません。主人は結果すべてを引き受ける覚悟をした上で、十人のしもべたちにそれぞれ一ミナを預けたのですから。しかし何もしないというのは、私があなたのすべての責任を背負おう、という主人の隠れた思いを無駄にする行為です。いいえ、無駄にするというよりは愚弄する行為と言えるでしょう。私たちそれぞれの心の中にも、福音のことばが預けられています。最後に出てくる、「私が王になるのを望まなかった者たちは殺してしまえ」という言葉は、あまりにも残酷に聞こえます。しかしイエス・キリストが救い主であることを知らないままに歩み続ける人々は、最後には罪のさばき、永遠の滅びが待っていることを聖書はあらゆる箇所で警告しています。だからこそ、忠実なしもべが必要とされているのです。私たちは知らせなければなりません。人々に知らせなければなりません。そのために私たちは、しもべとして先に救われたのです。私たちにゆだねられた一ミナ、たかが一ミナ、されど一ミナ、救いのみことばを人々に伝えていきましょう。
聖書箇所 『創世記』20章1-18節
1アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住んだ。ゲラルに寄留していたとき、2アブラハムは、自分の妻サラのことを「これは私の妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、人を遣わしてサラを召し入れた。3その夜、神が夢の中でアビメレクのところに来て、こう仰せられた。「見よ。あなたは、自分が召し入れた女のために死ぬことになる。あの女は夫のある身だ。」4アビメレクは、まだ彼女に近づいていなかった。そこで彼は言った。「主よ、あなたは正しい国民さえも殺されるのですか。5彼が私に『これは私の妹です』と言ったのではありませんか。彼女自身も『これは私の兄です』と言いました。私は、全き心と汚れのない手で、このことをしたのです。」6神は夢の中で彼に仰せられた。「そのとおりだ。あなたが全き心でこのことをしたのを、わたし自身もよく知っている。それでわたしも、あなたがわたしの前に罪ある者とならないようにした。だからわたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。7今、あの人の妻をあの人に返しなさい。あの人は預言者で、あなたのために祈ってくれるだろう。そして、いのちを得なさい。しかし、返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことを承知していなさい。」8翌朝早く、アビメレクは彼のしもべをみな呼び寄せ、これらのことをすべて語り聞かせたので、人々は非常に恐れた。9アビメレクはアブラハムを呼び寄せて言った。「あなたは何ということを私たちにしたのか。私がいったい、罪となるどんなことをあなたにしたというのか。あなたが、私と私の王国に大きな罪をもたらそうとするとは。あなたは、してはならないことを私にしたのだ。」10また、アビメレクはアブラハムに言った。「あなたはなぜ、こんなことをしたのか。」11アブラハムは答えた。「この地方には、神を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに私を殺すと思ったのです。12また、本当に、あれは私の妹、私の父の娘です。でも、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。13神が私を父の家から、さすらいの旅に出されたとき、私は彼女に、『このようにして、あなたの真実の愛を私に尽くしてほしい。私たちが行くどこででも、私のことを、この人は私の兄です、と言ってほしい』と言ったのです。」14アビメレクは、羊の群れと牛の群れと、男女の奴隷たちを連れて来て、アブラハムに与え、またアブラハムの妻サラを彼に返した。15アビメレクは言った。「見なさい。私の領地があなたの前に広がっている。あなたの良いと思うところに住みなさい。」16サラに対しては、こう言った。「ここに、銀千枚をあなたの兄に与える。これはあなたにとって、また一緒にいるすべての人にとって、あなたを守るものとなるだろう。これであなたは、すべての人の前で正しいとされるだろう。」17そこで、アブラハムは神に祈った。神は、アビメレクとその妻、また女奴隷たちを癒やされたので、彼らは再び子を産むようになった。18【主】が、アブラハムの妻サラのことで、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じておられたのである。2017 新日本聖書刊行会
「信仰の父」と呼ばれるアブラハムですが、生涯の中で何度も失敗をしています。今日の聖書箇所も、その一つです。そして覚えていただきたいことは、今日の物語は、アブラハムがソドムのロトのために神様にとりなした出来事と、あなたのひとり子イサクをいけにえにささげよという神様の命令に従った出来事、この偉大な信仰の勝利を描く二つの山のあいだに起きたことであったということです。アビメレクの前に、必死になってうその言い訳をするアブラハムの姿は、これが本当に前後に描かれるアブラハムと同じ人物かと疑うほど、情けない気持ちにさせられます。
しかし聖書は、私たちの信仰を励ますために書かれました。私たちもアブラハムと同様、信仰生活の勝利の頂にまで近づいたと思っていたら、次の瞬間にはとんでもない罪や失敗を犯してしまうことがあります。しかもアブラハムは、このたびはゲラルの王アビメレクに対して嘘を語りましたが、何年か前にはエジプト王ファラオに対しても、同じような嘘をついて、同じような結末になっているのです。私たちも罪を犯してしまったときには、「ごめんなさい、もうしません」と神様に悔い改めるのですが、翌日には「またやってしまいました、ごめんなさい」と祈ることもしばしばあります。しかし安心してください。聖書の中には、「仏の顔も三度」という言葉はありません。私たちが何度同じ罪や失敗を犯しても、私たちがそれを神の前に告白するならば、神は必ずその罪をゆるしてくださいます。ですから私たちはアブラハムの失敗を通して、同じ失敗を犯してしまう弱さと同時に、必ず罪をゆるして下さる救いの恵みというものにも、忘れずに目を留めていきましょう。
バプテスト教団の牧師が教えてくれたジョークです。アメリカの教会では、一回に何十人もの人々が一緒にバプテスマを受けるということが珍しくなく、ハワイのバプテスト教会では、ワイキキの海岸でたくさんの人々がまとめて洗礼式を行います。一人の小さな男の子が、自分のお母さんに「どうしてみんな洗礼を受けるのか」と尋ねました。お母さんは答えました。「それはね、イエス様を信じて、罪を洗い清めていただくためなのよ」。するとその子はとたんに青ざめて、こう叫んだそうです。「だめだよ!こんなにたくさんの人の罪が流れちゃったら、ハワイの海が汚れてしまうよ」。
あくまでもジョークですが、しかし多くの人々は、この男の子のような、罪は汚れたものという純粋な感覚を失ってしまっているかもしれません。それは福音を知らない未信者だけではなく、クリスチャンも例外ではありません。自分自身を神様のきよいみことばに照らす者は、自分の汚れを知っており、かつそれがイエスの十字架によってすべて赦されたという恵みを知っています。しかし、神のことばではなく、他人の言葉や行動ばかりを見ている者は、自分の罪の大きさがわからなくなります。ものさしが曲がっているからです。そしてこれぐらいの罪ならいいだろうという妥協の連続に陥っていってしまいます。そのようなクリスチャンにならないために、私たちは、罪が奪っていく大切なものを三つ、今日の聖書箇所から見ていきましょう。
まず第一に、罪は、私たちと神さまとの関係を損ないます。アビメレクが、アブラハムの嘘を信じて、サラをそばめとして召し入れた夜、神はアビメレクの前に現れてさばきを宣告しました。それが3節から7節までのやりとりですが、じつはこのやりとりの中で、神はアブラハムのことを「あの人」、サラのことを「あの女」と呼び、ただの一言も名前をもって呼ぼうとしません。ここには、私たちの罪が、神と私たちとのあいだにあるはずの親密さを損なう姿が書かれています。神様にとって、イエス・キリストを信じた私たちクリスチャンは、一人の例外なく、自慢の息子であり、自慢の娘です。それは、神のひとりごであるイエスが代わりに死んでくださったほどの者、つまり私たちは、神にとって誇りであり、冠であるからです。神は、私たちの名前をあげて世の人々に伝えたいと願うほどにうずうずしている、やや俗っぽい言い方をしていますが、これはそのとおりなのです。しかし私たちが罪を犯し、しかもそれを認めようとしないならば、神は私たちの名前を出すことを恥じます。アビメレクに対して神は本来、アブラハムとサラをご自分の自慢の民として証ししたかったはずです。しかし彼ら夫婦の罪が、神からその喜びを奪ってしまいました。私たちは、罪と聞くと、自分に対するさばきを連想しがちですが、それ以前に、罪が神様ご自身を悲しませ、傷つけているということを忘れてはなりません。神様がもう一度喜びを取り戻すためには、私たちの方から神のほうへ近づき、悔い改めることです。
第二に、罪は私たちから証しの機会を奪います。救われたと言いながら、罪を犯し続けているならば、その救いはなんと浅いことでしょうか。罪の重荷を隠しながら、キリストを証ししていこうとしても、その笑顔は作られた笑顔、その喜びは偽りの喜びでしかありません。アブラハムが、この嘘の間、どこまで罪の呵責に苦しんだかはわかりません。しかし彼の罪は、アビメレクに対する証しの機会を奪ってしまった。それでも神の民かというあざけりを人々の間に生んだことでしょう。しかし私たちは罪を犯したとき、それを心に示されたならば、すぐにそれを主に告白しましょう。その罪は、イエス・キリストによって確かにきよめられるのです。その確信の中で、私たちは心から喜んで主を伝えていくことができます。周りの家族や人々に対し、偽りでない、本当の喜びをもって、イエスという名前を伝えていくことができます。
第三に、罪は家族をもまきこんでいきます。5節のアビメレクの言葉は衝撃的です。「彼が私に『これは私の妹です』と言ったのではありませんか。彼女自身も『これは私の兄です』と言いました」。アブラハムは、サラを自分の罪に巻き込み、サラは自ら偽りに荷担する者にさせてしまいました。罪は私たち個人だけでなく、家族をも闇に引き込みます。罪は、人から人へ、家族から家族へと闇を増殖させていきます。私たちがもし今罪を犯しているなら、それを神に告白しましょう。そのままにしておくならば、それは自分よりもむしろ家族を苦しめていくものになるかもしれないのです。
しかし神に感謝します。確かに私たちは罪を犯しますが、それでも私たちは神の子どもであるという事実は、決して揺るがないからです。神はアブラハムの罪にもかかわらず、アブラハムのことを「預言者」と呼びました。うそつきが神のことばをあずかる預言者である!そんなことがあり得るでしょうか。しかし神ご自身がそう言われるのです。そして神は、アブラハムがその嘘によって汚した口から、とりなしの祈りがささげられるのであれば、わたしはその祈りを必ず受け入れるということを約束されました。
信仰者であっても、罪を犯すことがあります。しかし大事なのは、罪を犯さないことではありません。罪を犯しても、そのたびにそれを神様の前に悔い改めることです。単に口先だけでごめんなさいというのではなく、自分の犯した罪の大きさをしっかりと見つめ、それを神の前に確かに告白し、心に刻みつけるということです。もし私たちが罪を告白するならば、神はその罪を必ず赦してくださいます。そして赦すとは、もう決してそれに目を留めず、思い出さないということです。私たち人間は許すと宣言しても、いつまでもそれを覚えているものですが、神は違います。イエスの血によって赦すと宣言してくださるとき、その罪ははじめからなかったものとして取り扱ってくださいます。
だから私たちは、同じ罪を何度も犯し、そのたびにそれを悔い改めたとしても、神様から「またやったのか、馬鹿者」と呼ばれることは決してありません。どんな罪であったとしても、悔い改めるならば、キリストの十字架はそれを完全に赦すことのできます。神に対して、兄弟姉妹に対して、家族や知人に対して、振り返っていない罪はないかどうか、聖霊が呼び起こしてくださるように祈りましょう。一人ひとりの歩みが、罪をきよめられた喜びと確信の中にある一週間となりますように。