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最近の記事
(01/27)2023.1.29主日礼拝のライブ中継
(01/26)2023.1.22「神に大いなることを期待せよ」(マルコ5:21-24,35-43)
(01/20)2023.1.15「二千匹より重いもの」(マルコ5:6-7,10-20)
(01/13)2023.1.8「この人に出会うために」(マルコ5:1-10)
(01/06)2023.1.1「さあ、向こう岸へ渡ろう」(マルコ4:35-41)
(01/26)2023.1.22「神に大いなることを期待せよ」(マルコ5:21-24,35-43)
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(01/06)2023.1.1「さあ、向こう岸へ渡ろう」(マルコ4:35-41)
2023.1.22「神に大いなることを期待せよ」(マルコ5:21-24,35-43)
聖書箇所 マルコ5章21〜24、35〜43節
21 イエスが再び舟で向こう岸に渡られると、大勢の群衆がみもとに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。22 すると、会堂司の一人でヤイロという人が来て、イエスを見るとその足もとにひれ伏して、23 こう懇願した。「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」24 そこで、イエスはヤイロと一緒に行かれた。すると大勢の群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
35 イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」36 イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」37 イエスは、ペテロとヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分と一緒に行くのをお許しにならなかった。38 彼らは会堂司の家に着いた。イエスは、人々が取り乱して、大声で泣いたりわめいたりしているのを見て、39 中に入って、彼らにこう言われた。「どうして取り乱したり、泣いたりしているのですか。その子は死んだのではありません。眠っているのです。」40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子どもの父と母と、ご自分の供の者たちだけを連れて、その子のいるところに入って行かれた。41 そして、子どもの手を取って言われた。「タリタ、クム。」訳すと、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」という意味である。42 すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。43 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと厳しくお命じになり、また、少女に食べ物を与えるように言われた。2017 新日本聖書刊行会
数年前から、「一年間で聖書通読」というキャッチフレーズで、週報の片隅に聖書通読日課を掲載しています。言い出しっぺですので、一応、毎日そのスケジュールに従って読んではいますが、ふと気づくと、頭の中に何も入っていないまま、最後のページになってしまっていた、ということもよくあります。それでも自分を責めたりしない、というのが聖書通読を続けていくコツですね。頭に入るときもあるし、入らないときもあります。しかし読み続けることに意義がある。そして読み続けていくと、聖書の世界が少しずつ広がり、さらにみことばがわかる、といううれしいことも起こります。
たとえば、今日の聖書には、自分の娘のためにいやしを願った、ヤイロという人が登場します。聖書通読を続けていると、たとえばこのヤイロのように、病気で死にかけている自分の子どものためにイエス様にいやしを求めてきた父親たちの例が、イメージとして浮かんできます。そして彼らに共通していることは何だろう、というところから、このヤイロの物語を読み解くヒントも浮かんできます。たとえば、てんかんの症状をかかえた息子をいやしてください、と願った父親がいました。彼は「もしできるなら、息子からてんかんの霊を追い出してください」と言ってしまい、イエス様から「もしできるなら、ではない。信じる者にはどんなことでもできるのだ」と言われます。あるいは死にかけている息子のために、家に来て下さいと願った父親がいました。でもイエス様は行きません。「あなたがたは奇跡を見ない限り信じない」とにべもない。それでも食い下がる父親に、「家に帰りなさい。息子は治っています」と言います。半信半疑で、父親が家に帰ると、ちょうどイエス様がそれを語ったその時、息子は治っていたということがわかり、一家みながイエスを信じます。
このような例が教えていることは、子供が死にかけているので助けてほしいと願ってきた父親に対し、イエス様が必ずなされたことは、一度は親がくじけてしまうような言葉や方法で、その信仰を引き上げてくださる、ということです。では、このヤイロはどうでしょうか。22節を読んでみます。「すると、会堂司の一人でヤイロという人が来て、イエスを見るとその足もとにひれ伏して、こう懇願した。「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」
彼は、いわば信仰の優等生です。イエス様はどんな病をもいやしてくださるという信仰があります。そして多くの会堂管理者がユダヤ当局の一員としてイエスを敵視していた中で、その立場を投げ出してでも、イエス様の前にひれ伏しました。すでに彼はこの時点で、欠けるところのない信仰を持っていたように思えます。しかしじつは、彼にはひとつだけ、欠けたところがありました。それは何でしょうか。彼は自分が考えたプランの中に、神の力を閉じ込めようとしています。彼は、イエスに助けを求めていますが、自分が考えるようなやり方で助けてください、と制限をつけています。もう一度、彼のことばを繰り返してみましょう。「私の小さな娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」
彼は自分でも気づかないまま、自分の考えたプランの中で神を動かそうとしています。神が、自分の想像を超えた御力によって娘をいやしてくださることを期待するのではなく、神に、私の言うとおりに動いてくだされば、娘は治りますと決めつけている。しかし信仰とはそうではない。受け入れられないものを受け入れる、信じられないものを信じる、常識を越えたものを事実として受けとめること、それが信仰なのです。
信仰とは何でしょうか。それは、神が私の想像を遥かに超えた方であると信じることです。目が塞がれている私に対して、すべてを見ておられる神に全権をゆだねることです。私が神の行動を指定して、そのとおりに動いてくれることではなく、神が私の想像を遥かに超えたみわざをなしてくださると信じること、それが信仰です。確かに私たちはイエス様に何でも求める事ができます。しかしそれは、私たちが想像したとおりに神よ、動いてください、という祈りではありません。私たちの想像を遥かに超えた形で、神よ、あなたのみわざをなしてください。そして私をそのために用いてください、と祈る。そのような信仰は、神を閉じ込める信仰ではなく、むしろ私たちを世間の常識の箱の中から、神の高さ、広さ、深さにまで解放する祈りとなります。
私たちは自分が考えているように神様が動いてくださるようにと願い、一生懸命祈ります。それが信仰だと信じて。でも、神様は私たちよりもはるかに大きく、私たちの想像もできない手段と過程を通して、みわざを現されるのです。もう一度言いましょう、私たちの想像もつかないことを神がしてくださると信じるのが信仰です。確かに具体的に祈ることは必要でしょう。しかしその「具体的」ということにばかり関心がいくあまり、神のみ力をあなたの常識の中に閉じ込めてはなりません。
ヤイロの願いは、一見、信仰的に見えます。しかしキリストは、彼の信仰がいわば「常識的な信仰」にとどまっていることを見抜かれました。娘が死ぬ前にあなたが来てくださって手を置いてくだされば、娘は助かります、それは常識にとどまっている信仰です。娘が死んだ後でも必ずイエス様がよみがえらせてくださる、常識を越えた信仰へと彼が突き抜けていくこと、それを教えるために、イエス様はヤイロと一緒に進んで行かれました。
今日、省略した聖書の箇所は、来週また取り扱いますが、そのあいだにヤイロの娘は死んだ、という知らせが届きました。35節、「イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人々が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。』」この時、ヤイロが頭に浮かべていた娘のいやしのイメージ、「イエス様が娘の上に手を置き、祈り、そして娘が立ち上がる」はガラガラと崩れていきました。しかしここからが、本当の信仰の始まりです。人間の目には絶望的な状況です。しかしその時、神は優しくこう言われるのです。「恐れないで、ただ信じていなさい」と。神はあなたにも言われます。「恐れないで、ただ信じていなさい」と。今、試練のただ中にある人よ、あるいは弱さの中で苦しんでいる人よ、どうかみことばを心に留めてください。私たちが期待できない状況の中にあるときほど、想像を超えた神のみわざを期待してください。神様がああして、こうして、助けてくださると自分のイメージの中に神の力を閉じ込めているかぎり、私たちの信仰は成長しません。しかし私が想像もつかないような方法で、神が解決の道を与えてくださるということを信ずる、ただ信じ続けるとき、そこに神の力が働きます。
人生において、無計画、無鉄砲というのは避けなければならないでしょう。しかし、私たちのちっぽけな脳みそで、一切隙のない計画を立て、これでだいじょうぶ、と言うなら、神はそれを必ず砕かれます。それは神を信じる信仰ではなく、神を利用して自分の力と計画を信じている、ニセの信仰だからです。神に大いなることを期待するものだけが、その大いなることを体験することができます。私たちが家庭、教会、職場、至るところで困難にぶつかるとき、そこに自分の想像を超えた神のみわざを働かせてください、と祈りましょう。ただ永遠、そして無限であられる神だけに栄光がありますように、と。
2023.1.15「二千匹より重いもの」(マルコ5:6-7,10-20)
聖書箇所 マルコ5章6〜7、10〜20節
6 彼は遠くからイエスを見つけ、走って来て拝した。7 そして大声で叫んで言った。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。神によってお願いします。私を苦しめないでください。」10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでください、と懇願した。
11 ところで、そこの山腹では、おびただしい豚の群れが飼われていた。12 彼らはイエスに懇願して言った。「私たちが豚に入れるように、豚の中に送ってください。」13 イエスはそれを許された。そこで、汚れた霊どもは出て行って豚に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖へなだれ込み、その湖でおぼれて死んだ。
14 豚を飼っていた人たちは逃げ出して、町や里でこのことを伝えた。人々は、何が起こったのかを見ようとやって来た。15 そしてイエスのところに来ると、悪霊につかれていた人、すなわち、レギオンを宿していた人が服を着て、正気に返って座っているのを見て、恐ろしくなった。16 見ていた人たちは、悪霊につかれていた人に起こったことや豚のことを、人々に詳しく話して聞かせた。17 すると人々はイエスに、この地方から出て行ってほしいと懇願した。
18 イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供させてほしいとイエスに願った。19 しかし、イエスはお許しにならず、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」20 それで彼は立ち去り、イエスが自分にどれほど大きなことをしてくださったかを、デカポリス地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。2017 新日本聖書刊行会
中学生の頃、小説家になりたかったのです。小説のまねごとをノートに書きためて、いつかこれが世に出て、天才作家あらわる、と新聞に出てムヒョヒョヒョ。ところが世に出る前に、姉に見られてしまったのです。けちょんけちょんにけなされて、それ以来、私は筆を折りました。ただ神さまはよくしてくださったもので、その頃にたくさん本を読んだ経験というのは、牧師という毎週説教を作らなければならない仕事についた後に、たいへん役に立ちました。
聖書は、神のことばですが、同時に文学作品としても優れています。とくにこのマルコ福音書は、マルコがもともと持っていたのであろう文才が、聖霊によって用いられている姿をみることができます。どういうことでしょうか。
このマルコ福音書は、最初の書き出し、つまりマルコ1章1節は、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」という言葉で始まります。つまり、この本は、イエスが神の子であることを伝えるために書くものですよ、と言っています。ところが、実際にこのマルコの福音書の中には、「神の子」という言葉は、四回しか出てきません。一つは、その1章1節、そして二つが、悪霊が告白している言葉、そして残りの一つが、イエスが十字架で息を引き取った後、その一部始終を見ていたローマ軍の隊長が残した言葉、「まことに、この人は神の子であった」。つまり、弟子たちのだれも、イエスを「神の子」と告白していないのです。むしろ、告白できない。神の子であることがわからない。人間には、イエスが神の子であることがわからないのです。悪霊でさえ、イエスを神の子と知って恐れているのに、人間の方は、弟子たちでさえ、神の子であるということがわからない。マルコは、小説家を目指していたのではないでしょうが、少なくとも、小説や映画でよく用いられるテクニックをこの福音書に取り入れています。
少し年配の方は、「幸せの黄色いハンカチ」という映画をご存じだと思います。刑務所から出てきた男が、奥さんに手紙を書いて、もし自分を受け入れてくれるようであれば、庭先に「黄色いハンカチ」をつるしておいてくれと頼みます。そして映画のラスト、男が恐る恐る、家を探すと、運動会の万国旗のようにたくさんの黄色いハンカチが吊されている、有名なシーンです。じつはこのラストシーンのために、監督は映画の中に次のような演出を入れていました。それは、この男が家に帰るまでの旅を描く約一時間半、できるだけ黄色いものが画面に現れないようにする、というものです。そうすることで、最後の黄色いハンカチが、目に焼き付けられる。マルコも同じことをしています。「神の子」イエスについて伝えるために、逆に「神の子」についてほとんど人間には語らせない。しかし最後の最後に、弟子ではなく、ユダヤ人でもない、ローマ人の千人隊長だけが唯一、「この方はまことに神の子であった」と告白するのです。
まさに十字架というのは、私たちの見えない目を開く出来事です。神の子が私たち罪人の身代わりになって死んでくださった。この命がけの愛を通して、目の見えなかった者が見えるようになった。神の愛がわからなかった者が、神の愛の中に生きる者となった。罪のさばきが待ち受けていたはずの者が、罪がゆるされて永遠のいのちの中に歩むようになった。
あらゆる人間は、この十字架の前に立たない限り、神の子がだれか、わからないのです。だからこそ、私たちは十字架を伝えなければなりません。そして私たちでしか、まことの十字架を伝えることができる者はいないのです。そのことを忘れないでいただきたいと思います。
マルコ福音書は、弟子たちの誰もが、イエスを神の子だとわからないという現実を描くと共に、このゲラサの地の人々もそうであったことを述べています。レギオンが二千匹の豚へと追いやられ、このとりつかれた人が正気に戻ったという喜びの場面であるはずが、16、17節にはこうあるからです。「見ていた人たちは、悪霊につかれていた人に起こったことや豚のことを、人々に詳しく話して聞かせた。すると人々はイエスに、この地方から出て行ってほしいと懇願した」。人々は、悪霊につかれた人々の以前の状況を知っていました。身体を痛めつけながら、鎖をひきちぎるような姿を実際に見ていました。しかしその本人が、今や裸ではなく着物を着て、正気を取り戻しているのを認めながら、彼らはイエスに出て行ってもらうことを願ったのです。なぜでしょうか。家畜として飼っていた豚二千匹を失ってしまったからです。
これ以上イエスにここにいてもらっては、一体どんな損失が起こるかわからない。それが人々の心の現実でした。ここに、私たちは、悪霊レギオンどもが「私たちをこの地方から追い出さないでください」と願った理由がわかるのです。この地方は、悪霊にとって、まさに居心地のいい場所でした。一人の人が悪霊から救われるのと、豚二千頭が失われるのと、どちらが大切なのか。キリストにとっては、豚二千頭よりも、一人の人が救われることのほうが大切なことでした。悪霊たちも、イエスがそのような方であることを知っているからこそ、自分たちを豚の中に追いやって欲しいと願ったのです。しかしこのゲラサ地方の人々にとっては、人一人の救いよりは、二千頭の豚のほうが重かったのです。その意味で、彼らは悪霊よりも、さらに闇の深みの中に捕らえられていた者たちであったと言えるのではないでしょうか。
しかし私たちの中にも、そのような部分があるかもしれません。聖書は、私たち自身のありのままの姿を映し出す鏡です。そこから目をそむけてはなりません。今、自分の心に質問しましょう。一人のたましいが救われることよりも、犠牲となる何かを惜しんでいるということはないでしょうか。もしそれに気づいたならば、次のような生き方を参考にしてみてください。
救いを知らないために病や不幸を恐れる人のために何時間かを費やす。救いに興味のない友に、福音を語ることのできる機会を祈り求めながら、その友を訪れ、寄り添う。
そのような犠牲は、ムダに時間を過ごしているかのような徒労感しか生み出さないように思える時すらあります。しかし一人の人が救われるためという、その重みにまさるものはこの世にはありません。かつては墓場で叫んでいた人が、大胆な証し人へと変えられていく、そんな人生の劇的な変化、それは私たちが語る福音、私たちが伝えるイエス・キリストだけが与えることができるものです。
悪霊の求めを受け入れ、ゲラサ人の求めを受け入れたイエスさまは、弟子としてお供したいというこの人の懇願だけは首を縦に振りませんでした。それは、この人にしかできない証しがあったからです。この人が生きてきた家庭、地域、社会、そこでキリストが神の子であることを証しすることを、イエスは願っておられました。私たちもまたそのように求められています。家族・友人・同僚・教え子のために、彼らがイエスを知り、信じることを願いながら、一緒に祈りをささげましょう。
2023.1.8「この人に出会うために」(マルコ5:1-10)
聖書箇所 マルコ5章1〜10節
1 こうして一行は、湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊につかれた人が、墓場から出て来てイエスを迎えた。3 この人は墓場に住みついていて、もはやだれも、鎖を使ってでも、彼を縛っておくことができなかった。4 彼はたびたび足かせと鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまい、だれにも彼を押さえることはできなかった。5 それで、夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていたのである。6 彼は遠くからイエスを見つけ、走って来て拝した。7 そして大声で叫んで言った。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。神によってお願いします。私を苦しめないでください。」8 イエスが、「汚れた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。9 イエスが「おまえの名は何か」とお尋ねになると、彼は「私の名はレギオンです。私たちは大勢ですから」と言った。10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでください、と懇願した。2017 新日本聖書刊行会
「さあ、向こう岸へ渡ろう」。イエスの声に押し出されて、弟子たちが湖の向こう岸にたどり着いたところから今日の物語は始まります。これだけ大変な思いで湖を乗り越えてきたのだ、きっとすばらしいことが起こるに違いない、と弟子たちは考えていたかもしれません。
しかしそこに待っていたのは、レギオンという悪霊に取り憑かれた人間でした。彼は墓場に追いやられ、鎖さえも引きちぎるような、獣じみた人間に変わっていました。朝も夜も、墓場や山の中で大声で叫びながら、自分の身体を傷つけていた、ともあります。そして、レギオンが言わせているのか、それとも彼自身の言葉なのかわかりませんが、「私に関わらないでくれ、私を苦しめないでくれ」とイエスに懇願します。
ここには、悪霊にとりつかれて、人格も生活も破綻して、しかもそこから解放されることも拒んでいる、そのような人の姿を見ることができるでしょう。このような悪霊にとりつかれた人の姿、というのは、いくら聖書に書いてあると主張しても、この世の人々にとっては、カビの生えた迷信としか受け止められません。
ではこのレギオンを含め、悪霊というものは、人間の迷信が生み出したものにすぎないのでしょうか。決してそうではありません。悪霊は狡猾です。現代の日本人は、このレギオンの物語や描写を見て、昔の人はこういう風に悪霊なるものを信じていたんだな、だがこの科学万能時代、もう悪霊なんてものはいないよ、と考えるかもしれませんが、それこそが悪霊の思うつぼなのです。
悪霊は、どの時代においても、どの国においても、人々が常識と考えている事柄を通して、人々を惑わします。二千年前、人々が病や不幸は悪霊がもたらすと信じていた時代、悪霊はそのような人々の常識の中に身を潜めました。現代の日本では、病や不幸は悪霊が原因であるというのは常識ではなく非常識です。だからこの国では、悪霊は、常識の中に身を潜めています。
宗教に頼る人間は弱く、自立していない、という偏見の中に。自由という意味をはき違え、匿名で相手を批判し、否定することで自分のプライドを保つ人間関係の裏に。多様性を強調しながら、相手を受け入れるのではなく大勢に合わせることを求めている世間体の中に。それを守るために、人は救いに背を向け、自分の生き方に満足し、信仰を洗脳か何かのように批判する。
それは、人の罪が生み出すものであると同時に、この国においては悪霊が極めて狡猾に、自分の身を隠しながら人々を闇の中に閉じ込めているという現実があるのです。
しかし、次のことは、時代や国によっても決して変わることがない真実です。イエス様が嵐の海を弟子たちとともに渡ってきたのは、この人に出会うためだったのです。自我や生活が崩壊し、墓場で自分の身体を傷つけながら、死んでいるように生きている、この人を救い出すためでした。そしてイエス様の目には、この現代の日本人の姿もまた、嵐の海を乗り越えて助け出さなければならないものとして映っていることでしょう。
今日の週報の表紙は、佐渡島の有名な観光スポットである、二つ亀という場所です。国内だけでなく、海外からも観光客が訪れて、景色や海水浴を楽しみます。しかしこの二つ亀からわずか800m、徒歩10分くらいのところには、賽の河原という場所があります。生まれてすぐに死んだ子供や、流産や中絶で生まれることができなかった子供への供養として、自然洞穴の中に、数え切れないくらいの地蔵が並べられています。この賽の河原で、亡くなった子どもたちが石を積む、最後まで積み上がれば極楽へ行ける、しかし地獄の鬼たちが必ず邪魔をするので、どの子どもたちも最後まで石を積み上げることができない、という悲しい言い伝えがあるそうです。
この世界のあらゆる人々が、この賽の河原のようです。決して積み上がることのない石を積み続けます。だれもが神との正しい関係を失った結果、家庭も壊れ、自分を正当化しようとします。たくさんの人々に囲まれていても、自分が本当は孤独なのだと思わずにはいられません。墓場には住んでいなくても、まるで墓場のようなひとりぼっちの世界です。鎖をひきちぎろうとしながらも、結局は自分で自分のからだを傷つけている。すべての人がそうなのです。
しかしイエス・キリストは、そのような人々を救うために、嵐の湖を乗り越えて来られるお方です。世は、このお方が与えてくださる救いのすばらしさを知りません。罪の支配からキリストの支配へと移ることが、どれだけの平安と喜びをもたらすのか、知ろうともしません。人々を罪にとどめ続けている悪霊は、自らを常識的と考えて、逆に神から遠く離れてしまっている人間たちをあざ笑っています。おまえたち人間がどれだけがんばろうが、俺の支配から逃れることはできないぜとたかをくくっています。
しかしその悪霊たちが、イエス・キリストの前には青ざめ、身震いします。遠くから走り寄り、主を拝み倒すほどの卑屈さでキリストの前に懇願するのです。彼らは知っているからです。キリストが彼らを滅ぼすことのできる唯一の方であることを。そしてキリストは言葉だけで、一瞬でそれがおできになる方であることを。ゲラサ人の地を支配していた悪霊は、恐怖にかられつつ、さばき主の名前を叫びました。「いと高き神の子、イエスさま」と。それは悪霊が叫んだのか、それとも悪霊に支配されていたはずのこの人が叫んだのかはわかりません。しかしいずれにしても、ここからこの人の回復の道が始まるのです。
今日、悪霊は、現代人が常識と考えているものの中に潜み、人々は自分でも気づかないなかで、悪霊の力に屈服しています。しかし二千年前のユダヤも、21世紀の日本でも、そこから助け出される方法はただひとつ、イエス・キリストの御名を呼び、この方を信じるということです。これからの教会は、福祉や地域活動を大事にしなければならない、という主張は確かにそのとおりですが、だからこそ、私たちはそのような地道な活動を通して、人々の目が福音に開かれて、イエスの御名を呼ぶことができるように、そのために祈り続けることを忘れてはなりません。悪霊さえ身震いして泣き叫ぶ、そのイエスの御名を私たちはいただいています。このイエス・キリストを人々に語り続けていく、そのような一週間として歩んでいきたいと願います。
2023.1.1「さあ、向こう岸へ渡ろう」(マルコ4:35-41)
みなさん、こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今回の説教は、映画の宣伝で言うならば「構想期間1年、制作期間4時間」といったところでしょうか。
制作期間はだいぶ盛ってしまいました。本当は2時間くらいかな。結構楽しんで作りました。
100年前の写真と、現在のGoogleマップを、定点観測のような形で並べるとこんな感じです。


常盤町通も、昔は花街として有名だったそうで、芸妓さんがたくさん歩いていたそうです。
私の夢は、今の朝市通が、アスファルト道路の上にテントを並べるようなものになっていますが、
これを大正風情漂う(鬼滅の刃の舞台みたいな)町並にしたいなあ、というもの。
実際は、古い家をどんどん壊して住宅やら駐車場にしているので、なかなか難しそうですが、
人口減が続いている豊栄を盛り上げるのは、新しいものを作ることよりも古いものを再生することではないかと。
ですからこれから建設する教会堂も、予算は厳しいですが、一部分だけでも大正テイストが入るといいなあと思っています。
そして一人でも二人でも、救いの向こう岸へと渡し届けること。それが私の後半のライフワークになりそうです。
今回の説教は、映画の宣伝で言うならば「構想期間1年、制作期間4時間」といったところでしょうか。
制作期間はだいぶ盛ってしまいました。本当は2時間くらいかな。結構楽しんで作りました。
100年前の写真と、現在のGoogleマップを、定点観測のような形で並べるとこんな感じです。


常盤町通も、昔は花街として有名だったそうで、芸妓さんがたくさん歩いていたそうです。
私の夢は、今の朝市通が、アスファルト道路の上にテントを並べるようなものになっていますが、
これを大正風情漂う(鬼滅の刃の舞台みたいな)町並にしたいなあ、というもの。
実際は、古い家をどんどん壊して住宅やら駐車場にしているので、なかなか難しそうですが、
人口減が続いている豊栄を盛り上げるのは、新しいものを作ることよりも古いものを再生することではないかと。
ですからこれから建設する教会堂も、予算は厳しいですが、一部分だけでも大正テイストが入るといいなあと思っています。
そして一人でも二人でも、救いの向こう岸へと渡し届けること。それが私の後半のライフワークになりそうです。
聖書箇所 マルコ4章35〜41節
35 さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。36 そこで弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたままお連れした。ほかの舟も一緒に行った。37 すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。38 ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言った。39 イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。40 イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」41 彼らは非常に恐れて、互いに言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」2017 新日本聖書刊行会
おはようございます。新年のはじめの日、1月1日、元旦を、いつものように、主日礼拝をもって始めることができることを心から感謝します。先週、先々週、そのまた前の週、昨年の52週間がそうであったように、今日も、来週も、礼拝を粛々とささげていきます。礼拝こそ、私たちの生命線、ライフラインです。みことばを受け取って、これからの一週間を歩んでいきましょう。それを毎週繰り返しながら、一年間を歩んでいきましょう。これからの一年間、どんなことが待ち受けていたとしても、この礼拝を大事にしていきましょう。
さて、一年のはじまりの、今日の礼拝は、「さあ、向こう岸へ渡ろう」という説教題でメッセージをさせていただきます。このタイトルは、35節にあるイエス様の「向こう岸へ渡ろう」から取っています。前の聖書では、「さあ」という呼びかけが入っていたのです。なんで取っちゃうのかなあ、と思うんですね。「さあ」、いい言葉じゃないですか。イエス様が音頭をとって、さあ、向こう岸へ渡ろうよ、と、この言葉だけで、何があっても耐えられるような気になってきます。この後の出来事を考えると、面白いですよね。「さあ」という言葉に押し出されて船を漕ぎ出すや、すさまじい嵐が襲ってくる。「さあ」とか言っておきながら、イエス様自身は、船の中でぐうぐう寝てしまう。
だけどね、やっぱりイエス様が呼びかける「さあ」は素晴らしいんですよ。「弟子たちはイエス様を舟に乗せてお連れした」と聖書には書いてありますが、実際は逆です。弟子たちがイエス様を舟に乗せたのではなくて、イエス様が弟子たちを舟に乗せているんです。弟子たちが舟の舵取りを間違えたらみんなドボンじゃないのです。たとえイエス様が寝ているように見えても、風も嵐も作られた神が人となって、弟子たちを小舟に乗せているのです。どうして沈むことがあるでしょうか。弟子たちはイエス様をたたき起こしましたが、そんなことをする必要はなかったのです。そこにイエス様がいる限り、決して舟は沈むことなく、動じることもない。弟子たちはただ信頼して、ただ波にゆられ、風に吹かれ、あるいは船酔いでげーげー吐いたかもしれないけれど、それでもイエス様にゆだねるならば、舟は必ず向こう岸に着くのです。
今から十年以上前になりますが、当時、木崎のほうにありました、豊栄バプテスト伝道所が、同じバプテスト教団で3教会が一つになって東区のほうに移転して、私も献堂式に出席させていただきました。そのときに祝辞を述べられた、当時、新潟信濃町教会の牧師であった小渕先生のメッセージが面白かった。「新しい教会の名前は、主の港キリスト教会だと聞きました。主の港というのはすごく良い名前ですね。聖書にも、讃美歌にも出てきます。自分が思いつかなかったのが悔しい。先に思いついていたら、自分の教会につけたのに」。まあ、小渕先生は、牧師にしておくのが勿体ないくらい、サービス精神が旺盛で、祝辞とはいえ、少しほめすぎ(ごますりのジェスチャ)。でも、私も、主の港って、良い名前だなあと思いました。ところがそれから十年経って、あのときわ会堂の場所をいろいろ調べていたら、あそこは主の港ならぬ、主の渡し場であると思いました。
今日の週報の表紙に載せた写真は、もともと白黒ですが、写真加工が得意な方にお願いして、色をつけてもらったものです。ここからときわ会堂のほうに行くときに、わらび屋というお菓子屋さんが入っているビルがある十字路、下他門交差点というところがあるのですが、今は広い道路になっているその場所の、百年前の姿がこの写真だそうです。ときわ会堂がある常盤町通という場所は、そこから一本先の道路なのですが、百年前はそこが自然堤防のような場所であったそうですね。「河川蒸気」というお菓子のパッケージにも描かれていますが、こんな小さな蒸気船が、この豊栄から新潟まで、そんなに大して乗れなかったと思うんですが、人々の通学や通勤の足になっていたんですね。
この写真を見たときに思ったんです。ああ、もしかしたら私たちが不思議なタイミングで、あの場所を得ることができたのは、この小さな蒸気船や、小さな船着き場が、豊栄キリスト教会の姿なのではないか、と。「港」のようにたくさんの人が乗り降りするわけではないけれども、この小さな船着き場がなければ向こう岸に渡れない人たちが、この町にもおられる。彼らがこの船着き場にたどり着いたとき、小さな舟に乗せて、確実に目的地まで運んでいく。そのような教会でありたいと願います。どんなに小さな渡し場であろうとも、そこにはキリストが待っておられ、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言ってくださる。そして私たちキリストの弟子たちも、この渡し場で乗せてくれと頼んできた人は、一人でも、二人でも、拒むことなく、確実に向こう岸、救いの栄光にまで、渡らせていく、そんな教会と、宣教の働きを願っているのです。
今日、招きの言葉として引用したのは、パウロの手紙の中にある言葉です。「すべての人に、すべての者となりました。何とかして、何人かでも救うためです」。「何とかして」という言葉は、パウロの口癖です。聖書の中に「何とかして」という言葉が8回出てきますが、そのうち7回はパウロが言っています。そして私たちが驚くのは、パウロでさえ、「何とかして、何人でも」と言っていることです。一桁なんですね。宣教というのは、昔も今も、地道な働きです。いちどきに何千人も救われる、というのは初代教会の中でもごく一部の時代であって、パウロの宣教は、目の前にいる一人を徹底的に愛して、その愛された人が愛を知り、また別の誰かに愛を伝えていく、ということの繰り返しの中で、教会は成長していきます。みなさん一人ひとりが、自分に与えられた賜物を用いて、この地域の方々や、自分の友人と向き合いながら、何とかして、一人でも、二人でも、神の愛の中へと招いていこうではありませんか。
「さあ、向こう岸へ渡ろう」と、イエス様は今日も呼びかけておられます。小舟を漕ぎ出した瞬間、空には黒雲が立ちこめ、風と嵐の中、私たちは右往左往するかもしれません。しかし改めて言います。「さあ」と呼びかけたのはイエス様ですから、私たちは何もおびえる必要はありません。神に必死に助けを呼ぶのは間違ってはおりません。しかし彼らの必死さは「私たちが死んでもかまわないのですか」という、神の愛への疑いから生まれていました。私たちはそうであってはありません。神に向かって真剣に、しかし神の愛を一切疑うことなく、主にゆだねましょう。イエス様がおられるところでは、どんなに激しい風と嵐も、私たちの髪の毛一筋も奪うことはできないのです。これから一年間、いよいよ私たちは、実際の教会堂建設に向けて、具体的に予算を立て、設計図を審議し、屋根や壁の仕様に至るまで、建築家や大工さんを交えながら話し合っていく一年となるでしょう。今までよりも、人の思いがぶつかることも起こるかもしれません。ですが、それもまた、神が与えられた恵みでもあります。それを通して私たちは、神の家族の交わりの豊かさ、お互いを敬うことの大切さを学んでいきます。主が建ててくださった渡し場から、小さな蒸気船に乗って、向こう岸へ。その先には、私たちでさえまだ知らない、神の無限の計画が待ち受けています。教会員だけでなく、求道者や客員の方々に至るまで、この主の恵みの中に飛び込んでいきたいと願います。
2022.12.25「神にふさわしくない場所で」(ルカ2:1-7)
みなさん、こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
一週間前は、泣きたくなるような大雪でした。このまま氷河期のようなクリスマスとお正月を過ごす羽目になるのかと思いましたが、新潟市内では(といっても広うござんす)雪はだいぶ溶けました。感謝。
うちの教会は、前面はまったく駐車スペースがない作りなのですが、庭だけは4〜5台入れそうな広さがあって、しかもその庭は回りが住宅に囲まれていて日の光がなかなか差さないところなのですが、今日は地面が見えていました。まあ、これからまた降ってくるのでしょうが、ちょっとだけ元気になりました。
今年も年賀状は書きませんでしたし、台所のコンロの油汚れも放置状態(牧師館のほうね)ですが、来年もよろしくお願いいたします。
一週間前は、泣きたくなるような大雪でした。このまま氷河期のようなクリスマスとお正月を過ごす羽目になるのかと思いましたが、新潟市内では(といっても広うござんす)雪はだいぶ溶けました。感謝。
うちの教会は、前面はまったく駐車スペースがない作りなのですが、庭だけは4〜5台入れそうな広さがあって、しかもその庭は回りが住宅に囲まれていて日の光がなかなか差さないところなのですが、今日は地面が見えていました。まあ、これからまた降ってくるのでしょうが、ちょっとだけ元気になりました。
今年も年賀状は書きませんでしたし、台所のコンロの油汚れも放置状態(牧師館のほうね)ですが、来年もよろしくお願いいたします。
聖書箇所 ルカ2章1〜7節
1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。3 人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。4 ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5 身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。2017 新日本聖書刊行会
みなさん、おはようございます。そしてクリスマスおめでとうございます。
大学生の頃の話ですが、アメリカからの留学生からこんなことを言われました。この前、町を歩いていたら、小さなラーメン屋の前に長い行列ができていた。すいている店に行くか、すいている時間に行けばいいのに、なぜわざわざ行列に並びたがるのか。いや、きっと他のラーメン屋よりうまいからだろ、って言ってあげたのですが、文化の違いからか、どうしても理解してもらえませんでした。彼が日本に来てまだ日が浅く、ラーメンの真の味を知らなかったからかもしれません。ただその後、何人かのアメリカ人と話してわかったことは、基本的にアメリカ人は行列に並ぶのが嫌い、ということでした。しかし彼らが一年の中で唯一、行列に喜んで並ぶ時があります。それがクリスマスの直前なのです。この時だけは、行列嫌いのアメリカ人が、嬉々として、デパートやショッピングセンターで行列を作ります。それは、贈り物を選ぶためです。
しかしそこにも、日本とアメリカの文化の違いが出てきます。日本では、クリスマスプレゼントは家族や友人など、すでに関係がある人たちに送ります。しかしアメリカでは、匿名で、見知らぬ子どもたちに贈り物を贈るような仕組みが、どこに行っても用意されています。つまり、親しい人に贈るためにではなく、まったく知らない人たちに贈りものをするために、彼らはこの時だけは喜んで行列に並ぶ。それは、キリスト教という宗教的伝統から生まれているものでもあります。自分とは関わりのない人々のために、喜んで贈り物を贈る、それはイエス・キリストの十字架の中に現れているものだからです。
神さまの方は、私たちを無関係とは見ておられません。しかし私たち人間の方は、自分には神とか、宗教とか、救いとかは関係ない。そのようなものとは一切関わりなく生きていくことができると思っていました。それこそが人の愚かさの極みですが、むしろかつての私たちは、そのような生き方こそが独立した人間としての正しい姿であるとさえ思っていたのです。しかしイエス・キリストはこのように神を無視し、拒み続けた、私たちすべての人間のために、いのちを捨ててくださいました。それは、自分のいのちを私たちにプレゼントとして与えてくださった、ということです。そしてこの愛を受けた者たちは、見知らぬ人々のために何かを贈るということも喜びになるのです。
リビングバイブルという、わかりやすく訳された聖書では、イエス・キリストについて、このように語っています。
「キリスト様は神様なのに、神様としての権利を要求したり、それに執着したりはなさいませんでした。かえって、その偉大な力と栄光を捨てて、奴隷の姿をとり、人間と同じになられました。そればかりか、さらに自分を低くし、まさに犯罪人同様、十字架上で死なれたのです」。
この言葉を心におぼえながら、今日は「飼い葉桶に寝かされた」という一つの言葉に注目して、イエス様のお誕生を語りたいと思います。飼い葉桶とは、言うまでもなく家畜のえさを入れるところです。ヨセフとマリヤの夫婦は、宿屋に泊まることができず、洞窟をくりぬいた家畜小屋に身をよせました。そそしてマリヤはそこでイエス様を産み、飼い葉桶に寝させました。
旧約聖書に、「牛がいなければ飼い葉桶はきれいだ」という言葉があります。裏を返せば、飼い葉桶は汚いところだ、ということでしょう。私は飼い葉桶は見たことはありませんが、飼い葉桶を想像させるのは、公園の公衆トイレです。いまは公衆トイレは綺麗なところが多いですが、私の実家の近所にあった公衆トイレは、壁にはマジックで卑猥な落書きがされているのは当たり前、しかも時々便器の中に、後は想像してみてください。あえてこんな汚い話しをしているのは、飼い葉おけというのは、最も神さまが人として生まれてくるのにふさわしくない場所だったということです。家畜の糞の匂いが漂い、唾液がこびりついているような粗末な入れ物、そこに主は寝かされました。いや、マリアさんはそんなひどい親ではないでしょうと思われるかもしれませんが、そんなところにしか寝かせる場所がなかった、ということです。
ある医療ドラマで、赤ちゃんに聴診器を当てるときに、お医者さんが聴診器に何度も息を吹きかけているシーンがありました。どうしてそんなことをするのかと研修医が聞くと、聴診器の温度は、大人にはなんともなくても、赤ちゃんにとっては心臓麻痺を起こしかねないくらい冷たい場合もあるんだ、と言うのです。家畜小屋の中で唯一、冷たい地面から守られるところ、それがこの汚い飼い葉桶にわらを敷き詰めたところであったとしたら、なんというところにイエスは生まれてこられたのか。何という場所にマリアとヨセフは追いやられたのか。しかし、だからこそ、イエス・キリストは、私たちの心がどんなに凍てついていたとしても、喜んで入ってきてくださいます。私たちの生活がどんなに荒れすさんでいたとしても、避けて通るようなことはありません。
キリストの生涯、それはいつも神にふさわしくないような場所におられる生活でした。神でありながら、少年、青年と貧しき家庭にとどまりました。罪なき方でありながら、罪人、取税人、遊女といったさげすまれた人々と共に食事をされた方でした。そして十字架。人々は頭を振ってこう叫びました。「神ならば十字架から降りてこい。そうすれば私たちは信じるから」。しかしキリストは決して十字架から降りなかった。罪のさばきとしての十字架。それを私たちの身代わりとして引き受ける以外に、人を救う方法はない。だからこそ降りなかった。もっとも神にふさわしくない場所である、十字架。そして死。それがキリストの地上での生涯でした。キリストはいつも、神に最もふさわしくない場所で生きて行かれた方だったのです。
私たちの心はすぐに高ぶり、自分を他人よりも優れた存在だと考えたがるものです。自分自身の心をまっすぐに見つめてみたとき、そこには神さまさえも鼻をつまんで逃げ出すような悪臭に満ちているのではないか、ということです。少なくとも、私がかつて信じていた神さまというのは、正しい者は守ってくれるが、悪しき者にはバチをあてる、というものでした。しかし聖書に出会い、イエス・キリストという救い主を受け入れたときにわかったのは、神様の前に正しいと言える人などひとりもいない、それでもなお、神さまは私たちすべてのためにいのちを捨ててくださった、そして私の中に生きてくださっている、ということでした。神はもっとも神にふさわしくないような場所に生まれてくださいました。そして決してそこから離れることも、見捨てることもなく、そこに光をあててくださいます。それが二千年前の飼い葉桶であり、いまこのとき、私たち一人ひとりの心でもあります。このクリスマス、恵みの中で、あなたの心の中にある飼い葉桶に目を向けてください。そこに赤ん坊のイエス様がほほえんでおられます。そして私たちを救いの恵みへと導いてくださるのです。
2022年度クリスマスイブ燭火礼拝の中継
放送時間 12/24(土)午後7:00〜8:00
<プログラム>
前 奏
招 詞 『イザヤ書』9章6〜7節賛 美 新聖歌68「久しく待ちにし」賛 美 新聖歌76「諸人こぞりて」代表祈祷
聖書朗読 『マタイの福音書』1章18-25節
メッセージ 「インマヌエル」
賛 美 新聖歌77「きよしこの夜」賛 美 新聖歌99「馬槽の中に」クリスマスの交祷「インマヌエル」頌 栄 新聖歌60「天地こぞりて」
祝 祷
後 奏
報 告
<プログラム>
前 奏
招 詞 『イザヤ書』9章6〜7節
6ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。7その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。2017 新日本聖書刊行会
1.久しく待ちにし 主よ疾(と)く来たりて み民の縄目を 解き放ち給え
主よ 主よ み民を 救わせ給えや
2.明日の星なる 主よ疾(と)く来たりて お暗きこの世に み光を賜(たま)え
主よ 主よ み民を 救わせ給えや
3.ダビデの裔(すえ)なる 主よ疾(と)く来たりて 平和の花咲く 国を建て給え
主よ 主よ み民を 救わせ給えや
4.能力(ちから)の君なる 主よ疾(と)く来たりて 輝く御位(みくら)に 永遠(とわ)につき給え
主よ 主よ み民を 救わせ給えや アーメン
1.諸人こぞりて 迎えまつれ 久しく待ちにし 主は来ませり 主は来ませり 主は 主は 来ませり
2.悪魔の牢(ひとや)を 打ち砕きて 虜(とりこ)を放つと 主は来ませり 主は来ませり 主は 主は 来ませり
3.この世の闇路を 照らし給う 妙なる光の 主は来ませり 主は来ませり 主は 主は 来ませり
4.しぼめる心の 花を咲かせ 恵みの露(つゆ)置く 主は来ませり 主は来ませり 主は 主は 来ませり
5.平和の君なる 御子を迎え 救いの主(ぬし)とぞ ほめたたえよ ほめたたえよ ほめ ほめたたえよ アーメン
聖書朗読 『マタイの福音書』1章18-25節
18イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。19夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。20彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。21マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」22このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。23「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。24ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、25子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。2017 新日本聖書刊行会
賛 美 新聖歌77「きよしこの夜」
1.きよしこの夜 星はひかり 救いの御子は 馬槽(まぶね)の中に 眠り給う いと安く
2.きよしこの夜 御告げ受けし 牧人(まきびと)たちは 御子の御前に ぬかずきぬ かしこみて
3.きよしこの夜 御子の笑みに 恵みの御代(みよ)の 朝(あした)の光 輝けり 朗らかに アーメン
1.馬槽(まぶね)の中に 産声(うぶごえ)上げ 木工(たくみ)の家に 人となりて 貧しき憂い 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ
2.食する暇も うち忘れて 虐げられし 人を訪ね 友なき者の 友となりて 心砕きし この人を見よ
3.すべてのものを 与えしすえ 死のほか何も 報いられで 十字架の上に 上げられつつ 敵を赦しし この人を見よ
4.この人を見よ この人にぞ こよなき愛は 現われたる この人を見よ この人こそ 人となりたる 活(い)ける神なれ アーメン
司式者 主よ。この世界の造り主である、御名をほめたたえます。
会 衆 私たちは、この一年も、出口の見えない中で苦しみました。
司式者 国と国が争い、人と人は距離を置き、闇を恐れています。
会 衆 しかしあなたは今夜、私の心を、ひとつの所へ導かれました。
司式者 二千年前、暗やみの中にひっそりと立つ、家畜小屋の中へ。
会 衆 汚れた飼い葉桶に寝かせられた、小さなみどりごの前へ。
司式者 そのみどりごこそ、私たちの主、イエス・キリスト。
会 衆 すべての恐れと不安を包み込んでしまう、神である方。
司式者 あなたが私たちと共におられるゆえ、私たちは恐れません。
会 衆 たとえ現実は変わらなくても、私たちには希望があります。
司式者 あなたが共におられるとき、私たちは変えられていきます。
会 衆 私たちが変えられていくとき、この世界も変わっていきます。
司式者 あなたが共におられるからこそ、人生には光が差し込みます。
会 衆 二千年前、ベツレヘムに現れたのと同じ、まばゆい光が。
司式者 偽りの光があふれ、いのちが踏みつけられる時代だからこそ、
会 衆 あなたによって産み出された、このいのちと光を証しします。
司式者 主よ、今晩、あなたが私たちの心に生まれてくださいました。
会 衆 そして明日も、あなたと共に生きる喜びを語らせてください。
天地(あめつち)こぞりて かしこみたたえよ 御恵みあふるる 父 御子 御霊を アーメン
後 奏
報 告
1.ようこそいらっしゃいました。感染防止のため、礼拝終了後の茶話会はありませんが、挨拶を交わし、クリスマスの喜びを分かち合いましょう。
2.当教会では、毎週日曜日午前10:30から礼拝を行っています。来年の最初の礼拝は1月1日です。どうぞお越しください。
2022.12.18「その子の名はヨハネ」(ルカ1:57-66)
みなさん、こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
クリスマスカンパっていうから何かもらえるのかと思ったら、クリスマス寒波でした。
それはさておき、二階の牧師書斎の扉が閉まりません。どうやら屋根の雪の重みらしいです。
閉じ込められたというレベルではありませんが、寒いわ〜。
まあ、もともと隙間風だらけの部屋なので、あまり変わりませんけどね。
むしろ明日、明後日と礼拝ができるかどうか・・・明日の夜はイブ礼拝、明後日の朝はクリスマス礼拝です。
全国の諸教会の礼拝が守られますように。
クリスマスカンパっていうから何かもらえるのかと思ったら、クリスマス寒波でした。
それはさておき、二階の牧師書斎の扉が閉まりません。どうやら屋根の雪の重みらしいです。
閉じ込められたというレベルではありませんが、寒いわ〜。
まあ、もともと隙間風だらけの部屋なので、あまり変わりませんけどね。
むしろ明日、明後日と礼拝ができるかどうか・・・明日の夜はイブ礼拝、明後日の朝はクリスマス礼拝です。
全国の諸教会の礼拝が守られますように。
聖書箇所 ルカ1章57〜66節
57 さて、月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。
58 近所の人たちや親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをかけてくださったことを聞いて、彼女とともに喜んだ。
59 八日目になり、人々は幼子に割礼を施すためにやって来た。彼らは幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしたが、
60 母親は「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。
61 彼らは彼女に「あなたの親族には、そのような名の人は一人もいません」と言った。
62 そして、幼子にどういう名をつけるつもりか、身振りで父親に尋ねた。
63 すると彼は書き板を持って来させて、「その子の名はヨハネ」と書いたので、人々はみな驚いた。
64 すると、ただちにザカリヤの口が開かれ、舌が解かれ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。
65 近所に住む人たちはみな恐れを抱いた。そして、これらのことの一部始終が、ユダヤの山地全体に語り伝えられていった。
66 聞いた人たちはみな、これらのことを心にとどめ、「いったいこの子は何になるのでしょうか」と言った。主の御手がその子とともにあったからである。2017 新日本聖書刊行会
みなさん、おはようございます。
今日はアドベント第四週、例年であれば、この第四週にイエス様のお誕生について語るというのがお決まりのパターンなのですが、今年は来週の日曜日が12月25日、いわゆるクリスマスにあたります。いわばアドベントが5週間あるような感じですね。それでイエス様のお誕生は、来週に語らせていただきまして、今週は、ザカリヤとエリサベツという老夫婦のあいだに生まれる、イエス・キリストの先駆者、ヨハネの誕生の所から語りたいと思います。
昨年か一昨年くらいだったでしょうか、親ガチャという言葉が流行りました。ガチャというのは、お金を入れてレバーを回すとおもちゃが入っているカプセルが落ちてくるものですが、そのカプセルの中に入っているのがあたりか外れかは運任せです。それをもじって、子どもは良い親のもとに生まれてくるか、悪い親の元に生まれてくるかは運任せ、家庭環境は子どもには選べない、というような意味で、親ガチャという言葉が言われるようになりました。
私たちクリスチャンにとって、子どもの誕生というのは神のみこころの実現です。どんな親であろうが、そこには偶然ではなく、神のみこころが働いていると信じています。しかしそのような信仰がむなしくなるほど、親に傷つけられる子ども、あるいは家庭、といったものが大きな社会問題となっています。そしてこのヨハネが生まれる背景には、神に最も近い祭司である父ザカリヤが、神のことばを信じなかったために子どもが生まれるまでは口がきけなくなるという、たいへん不名誉な出来事があったことが語られています。しかし神は、そんな父の失敗をすべて覆い、喜びで包み隠してくれるほどの喜びを、このヨハネの誕生によって与えられました。子どもが生まれる、というのは、まさにそのような喜びにあふれたものであります。57、58節をご覧ください。「さて、月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。近所の人たちや親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをかけてくださったことを聞いて、彼女とともに喜んだ」。
エリサベツは不妊の女性で、しかも年老いていました。当時のユダヤ人社会では、不妊は女性にとって恥とされていました。「あなたの子孫をわたしは祝福する」という、祖先アブラハムへの神の約束のことばに従えない、子どもを産めない女性は神の祝福にあずかれないと考えられていたのです。
私たちにとって、不幸とは何でしょうか。ある男性は、働き盛りの時にがんに冒されて、健康ばかりか仕事まで失いました。ある女性は、女手ひとつで育ててきた一人息子を交通事故で失いました。しかしそれでもなお、彼らはその中で生きがいを求め、教会に導かれ、信仰に出会い、懸命に生きています。がんが完治したわけではなく、子どもが生き返ったわけでもない。しかし彼らは、もはや不幸の世界の住人ではなくなっています。子供が生まれないことは不幸ではありません。次から次へと病に襲われることも不幸ではありません。月並みな言葉ですが、不幸とは、自分が不幸だと感じてしまったときに始まるのです。そして自分自身がもしそう感じてしまっていたとしたら、神さまが今まで与えてくださった恵みを一つずつ数えてみましょう。エリサベツにとって、この出産に至るまでの10ヶ月は決して安らかな日々ではなかったでしょう。先ほど言ったように、祭司である夫ザカリヤは、あなたがた年老いた夫婦から子どもが生まれるという神の言葉を信じなかったために舌がもつれ、会話ができなくなっていました。しかしそれもまた、不幸ではなかった。その苦しみを通して、エリサベツとザカリヤの夫婦は、同じ信仰を持って、同じ神を見上げて、生きる者へと変えられていったのです。
それがはっきりと現れたのが、生まれてきた子どもに名前をつけるという場面でした。子どもが生まれてきて八日目、イスラエルではこの日に男の子には割礼を行います。割礼というのは、男性の包皮を切り取るという儀式ですが、それがイスラエルに生まれた男子としてのしるしでした。そして同時に、この日に子どもは名前をつけられます。そしてイスラエルでは、子どもにつける名前というのは、すでに親族に与えられている名前をつけるのが習慣でした。しかしここでエリサベツは、ヨハネという名をつけなければなりません、と人々にはっきりと宣言します。これは一体何を表しているのでしょうか。生まれてくる子どもの名前をヨハネとつけなさい、というのは、御使いがザカリヤに与えた命令でした。しかしザカリヤは、子どもが生まれることそのものを信じなかったために、口がもつれてしゃべることができなくなりました。しかし彼は、しゃべれなくなったなかで、子どもの名前をヨハネとつけなければならないという神の命令をしっかりとエリサベツに伝えていたということがわかります。
そして人々がエリサベツだけではなくザカリヤにも身振り手振りで尋ねると、彼も書き板に力強く書き込みました。「その子の名はヨハネ」と。ザカリヤは一度は神のことばを信じなかった夫でありました。しかし彼らは、困難の中で一つとさせられたのです。夫婦は、その年数によって夫婦となるのではありません。一致は、困難の中で与えられていくのです。一致は、見えない絆とも呼び換えることができるでしょう。困難の中、神のみこころは何かを必死で祈り求めて行く中で、夫婦はその絆を確認しました。まだ信じていない夫、または妻がいる場合でも同じです。困難の中で、一方が最善の方法を神のことばに求めていくならば、必ず他方も導かれていきます。夫婦、家庭、社会、あるいは教会、そこには困難の中にこそ現れる一致が待っています。
ザカリヤが「その子の名はヨハネ」と書いた瞬間、彼の唇はほどけ、賛美があふれました。ヨハネとは、「主はいつくしみ深い」という意味です。それに対してザカリヤという名前は、「主はおぼえておられる」という意味があります。このザカリヤという名前も、何世代ものあいだ、彼の親族のあいだでつけられてきた名前でした。主はおぼえておられる。主は我らの痛み、悲しみ、そして約束をおぼえておられるという告白でした。しかしもうこれ以上、「ザカリヤ」の名前を引き継ぐ必要はない。神が私たちをおぼえておられるこそ、希望を失うべきではない、という約束はいまや実現した。ザカリヤという名前にしがみつく必要はなくなった。その名はヨハネ。主はいつくしみ深い。
ザカリヤの唇からは、賛美があふれて止まりませんでした。神のことばを疑った祭司から生まれる子どもが、今度はその神ご自身をお迎えする者として歩んでいく。神のご計画はあまりにも深く、そのあわれみは尽きることがない。私たちはいよいよ来週、主の降誕を迎えます。神によって一致を与えられ、神の与えてくださった絆を互いに堅く結びつけながら、約束の子、ヨハネのようにイエス・キリストの降誕の良き知らせを、人々に伝えて行きましょう。
2022.12.11「正しい人にも福音を」(マタイ1:18-25)
みなさん、こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今回の説教の中で、混血孤児のために尽力したキリスト者・澤田美喜について触れています。説教の中での説明は、例のウィリアム・ウッド先生の「あなたを元気にする100のミニメッセージ」(p.213)を参考にしているのですが、三菱グループのホームページに、より正確な説明がありましたので、一部引用します。
画像をクリックすると説明ページに飛びます
今回の説教の中で、混血孤児のために尽力したキリスト者・澤田美喜について触れています。説教の中での説明は、例のウィリアム・ウッド先生の「あなたを元気にする100のミニメッセージ」(p.213)を参考にしているのですが、三菱グループのホームページに、より正確な説明がありましたので、一部引用します。

この子らの母になる
第二次大戦後、日本に進駐した米兵と日本人女性との間に多くの混血児が生まれた。祝福されずにこの世に生を受けてしまった子ら。多くが父も知らず、母からも見捨てられていく。
ある日、満員列車で美喜の目の前に網棚から紙包みが落ちてきた。黒い肌の嬰児の遺体だった。美喜の頭に血がのぼり、心臓が激しく鳴った。イギリスの孤児院ドクター・バーナードス・ホームの記憶が突然よみがえった。美喜は天命を覚えて身震いした。
「日本にはいま大勢の祝福されない混血孤児がいる。そうだ、私はこの子らの母になる…」
夫の理解も得た美喜は憑かれたように行動を開始した。GHQに日参し「大磯の旧岩崎家別荘に混血孤児たちのホームを作らせて欲しい」と訴えた。混血孤児の問題は直視したがらない人が多かったが、教会関係者や一部の在日米国人、それに使命感に燃えた多くの人々に支えられ、美喜は諦めなかった。
執拗に陳情を繰り返す美喜の希望がかなうときが来た。ただし「物納された別荘を買い戻すならば」との条件付きだった。美喜は寄付を募り、私財を投入し、なお足りない分は借金に駆けまわった。GHQの指示ですでに資産を凍結された父久彌は、「世が世だったら、大磯の別荘くらい寄付してやれたのに…」と嘆いた。
昭和22年、美喜はついに別荘を買い戻し、ドクター・バーナードス・ホームのように学校も礼拝堂もあるエリザベス・サンダース・ホームをスタートさせた。美喜、46歳だった。
聖書箇所 マタイ1章18-25節
18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。24 ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。
1.
今から約80年前、日本が戦争に敗れて直後のことです。ひとりのクリスチャンのご婦人が、人々でごった返している列車に座っていました。列車が揺れたとき、頭上の網棚から、細長い風呂敷包みが落ちてきました。落ちた衝撃で、風呂敷がほどけました。中から何が出てきたでしょうか。大変ショッキングな話しですが、風呂敷包みに入っていたものは、黒人、あるいは黒人と日本人のハーフと思われる赤ちゃんの亡骸でした。回りの人々は騒ぎだし、そのご婦人は、自分が殺した赤ん坊の死体を捨てに行くところだと間違われてしまいました。幸い、潔白を証明してくれる人がいたので、警察に逮捕されるということはなかったそうですが、なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか、と憤慨し、本当の母親を恨んでも不思議ではない状況でした。
しかし、そのとき彼女は、聖霊のこんな語りかけを聞きます。「もしあなたが、たとえいっときでも、この子供の母親とされたのであれば、なぜ、日本中のこうした子どもたちのために、その母になってやれないのか」。
当時、日本に来たアメリカ軍兵士と、日本人女性のあいだに生まれた子どもたちの中には、父親がアメリカに帰国すると同時に、母親からも捨てられるという子どもたちがたくさんいました。彼女は、そのような子どもたちの面倒を見るために、その後、自分の財産と生活をすべてささげます。そして彼女が作った孤児院は、いまは学校やこども園に姿を変えて、百年経った今も、まだ残っています。
2.
もしこの女性、澤田美喜というクリスチャンですが、子どもを殺した母親に間違われるというこの出来事がなかったら、その人生はまったく違ったものになっていたかもしれません。そしてマリアの婚約者であるヨセフもまた、もしマリアが救い主の母として選ばれるということがなければ、その人生はやはり違ったものとなっていたことでしょう。聖書にはまずこう書かれています。18節をご覧ください。「母マリヤはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった」。
しかし聖霊によって身ごもったということは、後になって神さまが夢で教えてくださったからわかったことです。まずヨセフが直面した出来事は、マリヤが、まちがいなく自分以外の誰かの子を身ごもった、という現実だけでした。いったい誰の子なのか。自分に対するマリヤのまなざし、握りしめた手のぬくもり、将来を語り合ったその声。それらはすべて真実を隠した偽りだったのか。マリヤのふくらんだお腹は、彼を苦しめます
私たちは、ヨセフの立場に置かれたとき、どのように考えるでしょうか。聖霊によって身ごもったという事実は、まだヨセフには明らかにされていない中で、彼は何を考え、何を選んだのか。怒りに身をゆだね、マリヤを石打ちの刑にするために当局に引き渡すこともできました。そしてもうひとつは、マリヤに離縁状を渡して、はじめから婚約関係にはなかったことにして、彼女が殺されないようにすることです。しかしどっちの方法をとっても、彼はマリヤを失うのです。もしあなたがヨセフなら、どちらの道を選ぶでしょうか。信じていた者にいつのまにか裏切られていた。目の前の現実がそう語っているその時に、それでも「正しい人」でいられるでしょうか。
3.
聖書は、「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った」と記しています。彼は、怒りにまかせて彼女を石打ちの刑にするのではなく、内密に去らせることを決めました。しかしここで私たちは、聖書が伝えようとしていることをよく見極めるべきです。正しい人であったヨセフのように、あなたがたも生きなさい、ということではないのです。彼の正しさは、マリアを石打ちの刑から救うことはできても、婚約関係の中で将来を誓いあった二人の人生を回復することはできません。しかしここで神が彼の前に現れます。それは、「正しい人」であるヨセフにも、「罪から救ってくださる」イエスが必要であったということ。そしてこのイエスの誕生こそ、私たちを完全に救い、回復を与え、幸せにする力であるということです。
20節をご覧ください。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
確かにヨセフは「正しい人」でした。しかしどんなに「正しい人」であったヨセフでさえ、あなたもまた民のひとりとして、罪から救われなければならないということばを真っ先に聞く必要がありました。あなたも今までの人生で、「正しい人」として生きてきたかもしれません。しかし私たちの正しさ、それは薄暗いこの世界では、ある程度の光を放っているような電球のようなものです。しかし太陽のもとにさらされるとき、電球の光など誰の目にもとまりません。私たちは自分のことを、100%しみのない、純白のシーツのように見ているかもしれません。しかし電子顕微鏡でシーツを見ると、その表面は砂漠の岩山のようなごつごつとした、汚いまだら模様に映ります。
結.
ヨセフは眠りからさめると、すぐにその妻マリヤを迎え入れ、子どもの名をイエスとつけました。彼は、信じました。自分の妻の胎から生まれ出る者が救い主であるという約束を。そして自分もまた、その救い主によって救われなければならない者であることを。イエスは、二千年前にベツレヘムで生まれる前に、まずヨセフの心に生まれてくださったのです。私たちがイエス・キリストを信じるということ、それは私たちの心の中に、イエス・キリストが生まれてくださるということです。この方が私を罪から救ってくださる。そう心にかたく信じ、心の真ん中にイエスをお迎えするということです。ある詩人はこう歌いました。「たとえイエス・キリストが、ベツレヘムの家畜小屋に千回生まれ直してくれたとしても、あなたの心に生まれなければ、あなたは永遠に失われたままなのだ」。
しかしキリストを心に生み落とした者は、こう叫ぶことができます。「インマヌエル、神は私とともにいてくださる」と。どんなつらい出来事も、思い出したくない経験も、インマヌエル、神、我らとともにいます、の証しとなります。私たちは一緒にこう叫ぼうではありませんか。インマヌエル、と。あなたを罪の滅びから救ってくださる方がいます。その方は、どんな時でもあなたを愛し、あなたを決して捨てない。そしてその方こそ、二千年前のクリスマスに、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになったイエス・キリストなのです。この方を心に受け入れるために、一緒にお祈りをささげましょう。2017 新日本聖書刊行会
2022.12.4「信仰の目をもって」(イザヤ53:1-12)
みなさん、こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
アドベント第二週になりました。
相変わらずスロースターターで、クリスマスのチラシを作るのをすっかり忘れていました。
教会員の方から催促されたので、急いで作成。
一年ぶりにラクスルさんに依頼して、今回は2000部、ご近所に新聞折り込みを行う予定です。


裏面のクリスマスメッセージは、ほとんどがウィリアム・ウッド先生の「あなたを元気にする100のミニメッセージ」からの引用です。
本当は引用元を出さなければなりませんが、急いで作ったので書き忘れました。先生、ごめんなさい。
今は新刊で購入するのは難しそうですが、良い本なので買ってください。
今年も食事会はありませんが、少しずつ前へ進み始めています。
「人生最高の一日は過去でも未来でもなく、今このとき」というタイトルだけは自分で考えましたが、コロナ禍と言われ続けている三年間で、それでも今このときは、神が用意してくださった最善の一日なのだという思いを一人でも多くの方々に忘れないでほしいと思っています。
アドベント第二週になりました。
相変わらずスロースターターで、クリスマスのチラシを作るのをすっかり忘れていました。
教会員の方から催促されたので、急いで作成。
一年ぶりにラクスルさんに依頼して、今回は2000部、ご近所に新聞折り込みを行う予定です。


裏面のクリスマスメッセージは、ほとんどがウィリアム・ウッド先生の「あなたを元気にする100のミニメッセージ」からの引用です。
本当は引用元を出さなければなりませんが、急いで作ったので書き忘れました。先生、ごめんなさい。
今は新刊で購入するのは難しそうですが、良い本なので買ってください。
今年も食事会はありませんが、少しずつ前へ進み始めています。
「人生最高の一日は過去でも未来でもなく、今このとき」というタイトルだけは自分で考えましたが、コロナ禍と言われ続けている三年間で、それでも今このときは、神が用意してくださった最善の一日なのだという思いを一人でも多くの方々に忘れないでほしいと思っています。
聖書箇所 イザヤ53章1-12節
1 私たちが聞いたことを、だれが信じたか。【主】の御腕はだれに現れたか。2 彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。3 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。8 虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。9 彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。10 しかし、彼を砕いて病を負わせることは【主】のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。11 「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。12 それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」
1.
アドベント第二週にはいりました。先週は、同じイザヤ書の8、9章から、救い主の誕生について語りました。そこでは、霊的な暗黒状態の中を、泥沼を這いずるようにして歩んでいた民に、永遠の王、力に満ちあふれた救い主が与えられる、ということが書かれていました。しかし、この53章で描かれる救い主は、そのような力ある王とはまるで正反対のみじめな者でした。正確に言えば、人の目にはあまりにも惨めに見える救い主でした。イザヤは、「私たち」という言葉を使って、こう言っています。1節、「私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたか」。暗やみのなか、もがいていた民は救い主を待ち望んでいました。力強い御腕をもって、外国の強大な敵を打ち破り、解放してくれる人物こそ救い主であると信じて疑いませんでした。しかしその神の御腕が現れた者、イスラエルを救いに導く者は、どんな人物として彼らの中に現れるのか。それが2節です。「彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない」。「ひこばえ」というのはハエではなく、木の根元から生えてくる根のことです。現れたらすぐに切り落とされるので、役に立たないものの象徴とされています。これが救い主なのですね。
いったいどっちなんだ、となるでしょう。私たちのために力ある王が生まれると初めに言っておきながら、その王には、何の輝きもない、役に立たない人物である、と。しかし、ここには以前語った、イエスのたとえ話と同じように、私たちが信仰の目で見ることが求められているわけです。人の目にはつまらない、くだらない者と見なされるような者、しかしその内側に隠された、神のひとり子の持つ、いのちの光。それを見極めることのできる信仰の目が、私たちにも求められているのです。
2.
確かに救いは、恵みです。しかしそれは、救われるためには何も必要ないという意味ではありません。多くの者がくだらないとふみつけていく中にあって、ここにいのちがあるのではないかとふと立ち止まる、信仰の目。それもまた私たちから出たものではなく、神が与えてくださるものなのですが、イエス・キリストを知る、というのは、うわべだけでキリストを見るのではなく、信仰の目でキリストを見る、ということです。キリストは、誕生から死に至るまで、苦しみ抜かれた歩みでした。神の子でありながら糞尿の臭いにまみれた馬小屋の飼い葉桶に生まれた方。時の王ヘロデに命を狙われ、家族共々偶像の国エジプトに下ることを余儀なくされた。しかもその代償としてベツレヘムの幼子たちすべてが虐殺されるという痛ましさ。少年期を過ごしたナザレの町もユダヤ人からは汚れの町としてさげすまれていた所でした。そして三年半の公生涯も、人々の病をいやす一方でご自分は枕するところすらないという流浪の生活でした。やがて弟子たちからも見捨てられ、わずか銀三十枚で売り渡される。十字架での死だけがその地上の生涯に与えられた報いでした。
なぜそこまでしてキリストは自分のいのちを差し出したのか。それはまるで羊のような、すべての人々のためでした。羊というのはかわいいイメージがありまうが、実際には仲間の餌まで奪うわ、怒っても言うこときかないわ、そのくせ方向感覚がないので、すぐに迷子になるわ、という動物だそうです。それは私たち自身の姿でもあります。イエス・キリストはその羊のような私たちのために、文字通りいのちを捨てました。私たちのすべての罪をその身に引き受け、十字架へと向かっていきました。どんなに痛めつけられ、苦しみを与えられても声を上げなかった。私たちがかたくなで、自分の力では救いのために何もできないからこそ、イエスは私たちの罪をすべて負ってくださったのです。
3.
先日、福島県で痛ましい交通事故が起こりました。97歳の高齢者の運転する車が、歩道を歩いていた主婦をひき殺した事件です。彼の車はその後、三台の車に次々に衝突し、ようやく止まりました。ブレーキをかけた様子は現場には残されてなかったということです。だれもが、拳を振り上げて、そんな年齢になって運転しているのが間違いだ、と言うでしょう。家族も、運転免許の返納を勧めていたと聞いています。しかし実際にこれを自分自身に置き換えたとき、ことはそんなに簡単ではありません。あなたの運転は危険だからやめた方が良いと言われて素直にそうですねとうなずけるような人間はいないのです。私も、90歳くらいになって牧師を引退している姿を想像すると、運転免許を返したら礼拝にどうやって通うのか、と口をとんがらせているでしょう。自分の運転が危険だとは思わないし、ましてや自分が他人をひき殺すなどということは考えもしない。それが人間です。他人に対してはどこまでも客観的になりますが、自分に関しては、自分だけは違うと考えるのです。
それは、すべての人間が罪に無力であると言うことに通じます。他人の罪に対しては異常に敏感なのに、自分が罪人であるということには決して気づかず、指摘されても認めようともしません。やはり口をとんがらせて、いや、あの人のほうが私より罪人でしょう、と他人を指差します。人は罪に無力です。自分の力では己の罪に気づきません。自分の力では、自分を変えることができません。自分の力では、救いを得ることはできません。だからこそ、イザヤはこのように宣言しています。10節、「しかし、彼を砕いて病を負わせることは【主】のみこころであった」。神は、私たちすべての人間をそれほどまでに救いたかった。そのために神は、ご自分のひとり子、イエス・キリストを十字架の上で砕くという苦しみに甘んじたのです。
結.
イエス様もまた、天における永遠の神としてのあり方を捨てて、すべての人の身代わりとして、十字架のさばきを受ける道を選びました。父なる神が、そして御子イエス・キリストがそこまでして与えようとした罪の救いを受け取るにはどうすればよいでしょうか。このキリストが私のために死なれたのだと信じ、このキリストだけがまことの救い主であると告白するのです。私たちの罪のさばきは十字架でイエス様が背負ってくださいました。私たちは罪の力から解放されています。
信仰の目によってキリストを信じた私たちは、今も信仰の目によって、歩み続けます。神は私たちの進む一歩先に、常に光をおいてくださっています。その光こそ、私たちに与えられているみことばです。これから先、何が起こるかはだれにもわかりません。しかし次の一歩を下ろしたところには、必ず神はともしびを置いてくださっています。信仰生活はその繰り返しです。常に主が私たちと共におられることをおぼえ、信仰の目をもって、進んでいきましょう。2017 新日本聖書刊行会